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特集記事 「休職して、被災地で1年間働いてみて」右腕プログラムOG座談会・前編

私にとっての右腕体験7011viewsshares2014.10.09

「休職して、被災地で1年間働いてみて」右腕プログラムOG座談会・前編

192人。2014年8月末時点での「右腕」経験者の人数です。今回は「右腕OG座談会」と称して、東北に半年~1年間赴いて事業推進をサポートする右腕派遣プログラムに参加し、その後東京に戻って働いている女性3名を招いて、参加したきっかけや活動してみての感想、キャリアについてざっくばらんに語っていただきました。
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田村:まずは、右腕の時の活動内容と、今は何をしていらっしゃるかをそれぞれ教えてください。

戸塚:戸塚絵梨子です。2009年、大学卒業後に人材派遣会社の株式会社パソナへ入社し、2012年から会社のボランティア休職制度を利用して、岩手県釜石市の一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校で右腕としてお世話になりました。

活動内容ですが、当時団体が立ち上がったばかりで混沌とした状況だったので、まずは事務所の片づけや事務作業を、落ち着いてからは個人ボランティアや団体視察の受け入れ、仮設住宅に住む子どもたちへの自然教室運営をサポートしました。現在は、会社に復職しています。

橋本:橋本かな子です。2008年に旅行会社へ入社し約5年間勤めた後、2013年から1年間、会社の休職制度を使い、戸塚さんに続く右腕として一般社団法人三陸ひとつなぎ自然学校で活動していました。団体の基盤強化、外部から来るボランティアのケアやマネジメントを主にしていました。今年の3月から会社に復帰しています。

村井:村井香月です。私は大学卒業後、橋本さんと同じ旅行会社勤務を経て、ピープル・ツリーというフェアトレードのブランドで営業の仕事をしていました。「背景のある商品を販売する」という自分の経験を役立てられないかと、2011年9月から1年間、宮城県南三陸町の南三陸復興ダコの会で活動していました。

「オクトパス君」というキャラクターのグッズ製作・販売をしている団体で、活動開始当時は「復興支援としてタコの文鎮を作る」ということだけ決まっていました。販売戦略や広報、作り手のスタッフのとりまとめ役、リーダーの相談相手…など、何でもしていました。

現在は、東京で木を使ったグッズを製作している会社に勤務しています。もともと復興ダコの会とつながりがある会社です。立場は変われど南三陸町の物づくりと関わりが続いていますね。

宮本:宮本裕子です。大学卒業後に市場調査会社で約5年働いた後、2012年2月からNPO法人せんだい・みやぎNPOセンターで活動しました。2013年1月に活動を終え、5月に地元・神奈川県藤沢市に戻り、まちづくりやNPOを応援する中間支援NPOを中心に活動しています。
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ボランティア休職制度を利用し、被災地の復興に取り組む

田村:戸塚さんと橋本さんは、会社の休職制度を利用して右腕に行かれたんですよね?

戸塚:もともと、青年海外協力隊やワーキングホリデーを対象とした「海外ボランティア休職制度」があり、それが震災後に国内での活動にも適用可能になりました。ただ、国内で活用する前例が無かったため、休職期間や後任の調整等があり、実際に休職するまで結局9か月ほど待ちました。

橋本:私の場合は、右腕の活動に関する新聞記事を読んで「行きたい!」という気持ちが先に固まり、その後、休職制度を探しました。「行くなら一年間行きたい。でも、そんなに長期だと仕事を辞めなきゃならないかな」と考えていた中で、マッチングフェアでお会いした戸塚さんが休職制度を使ったと聞き、「私も探してみよう」という流れでした。

宮本:私も、青年海外協力隊へ行くための休職制度は社内にありましたが。ただ、私の場合はもともと「会社を辞めてNPOなどで違うことをしようかな」と考えていた時期だったので、辞めるという選択肢を選びました。

ただ、「会社を辞める」という決断って当時はものすごく勇気がいることだったので、一応「休職という形にはできますかね?」と聞いてみたんです。ですが、「辞めた後にまた戻ってくるのはありかもしれないけれど、休職にするのは難しい」ということで、結局退職することになりました。

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どこまで先のキャリアを考えて、被災地に飛び込んだ?

宮本:お二人は、「休職ではなく、退職して行こう」と考えたことはありましたか?

橋本:活動終了後の明確なビジョンがあれば退職していたかもしれないですが、当時は「とにかく行きたい!」という想いが先行していた中で、休職制度があったから辞めずに飛び込んだという感じです。団体の受け入れ条件と会社の休職制度で定められた期間がそれぞれ「1年間」とぴったりだったので。

戸塚:私も休職制度があってラッキーという感じでした。

村井:休職制度があるってすごいよね。そういう制度があれば、一歩踏み出しやすくなりますよね。

宮本: 30歳前後って、仕事もプライベートも、今後の人生についても考える時期じゃないですか。「右腕で東北に行く」という決断は、今後の人生の中での位置づけを明確にしてから行ったのか、そこまで明確にせず、「もう行くぞ!」という飛び込み型だったのか、どちらに近いですか?

戸塚:気持ちとしては「えい!」と飛び込んだ方ですね。休職希望自体は割と、早い段階の2011年夏ごろに会社に伝えていました。

橋本:私もどちらかというと飛び込み型ですね。「行きたい!」という想いが強かったです。休職制度は利用したものの、派遣後の活動や復職後のキャリアについてはあまり考えていなかったので、派遣前に「戻ってから、どうしたいの?」と、会社から突っ込まれていましたね。

きっかけは、震災直後の現場でのボランティア経験

宮本:そもそも、それまでゆかりの無かった土地・東北に行こうと思ったきっかけは何だったんですか?

村井:私はボランティアがきっかけです。もともと会社を辞めることは決めていたので、退職して時間ができた後に3週間ほど岩手へ行きました。ボランティアセンターの事務、植物を植えるとか、力仕事以外のボランティアもしてみたんですが、それでも「もっとやれることがありそうなのに」と、もどかしくて。

次の日帰るかもわからないボランティアには、任せられることは限られています。それは当たり前なんですが、受け入れる側も、ボランティア側も、お互いもう少し何ができるかよく考えればもっと良い成果が生み出せるんじゃないかと。

ちょうどその頃、新聞記事を見て右腕派遣制度を知って、腑に落ちたというか。「まったくの個人で行くのは不安だけど、この仕組みだったら長期で行ってもいいかな」と、説明会もなしに応募しました。

戸塚:私も短期ボランティアがきっかけです。震災直後、友人とレンタカーを借りてボランティアに行き、その後も社内で立ち上がった団体に参加する形でボランティアを続けました。

私はバイオリンをやっているんですが、「楽都」と呼ばれ音楽が盛んな福島県郡山市に月1回ほど通いました。当時、郡山はホットスポットとなっていて放射線量が高く、子どもたちが思いきり外で遊ぶことができない状況で、そんな中、子どもたちに楽器を教えたり、一緒に遊んだりする活動をしました。

参加してくれる子どもの保護者の方々は、会うたびに「ありがとう」と感謝の言葉を下さるんですが、「本心はどうなのかな」と思っていました。月に一度お邪魔するくらいでは、信頼関係が築けず本心を言ってもらえないのかもしれない。何が起きているのか、どういう暮らしをしていて、何を思っているのかを知りたくて、地域に長期間入り込むことを決めました。

橋本:私は、自分の中に「世の中や人のために、自分が役に立つことをしたい」という想いがずっとありました。その想いを突き動かし、ここでやらなくてはという気持ちが形になって出てきたきっかけが、この震災だったんだと思います。

東北にゆかりはありませんが、これだけ大きな災害が日本で起きたことに、自分の中に抱えていた想いが動き出しました。月に1度ほど通った短期ボランティアで初めて東北に足を踏み入れ、地元の方と触れ合う中で、その想いがどんどん強くなりました。

そのタイミングで村井(香月)さんが掲載されていた右腕についての新聞記事を見て「これだな」とストンと落ちて。そこからは考える間もなく説明会に行き、戸塚さんに会い、エントリーして…とんとんと進んでいきました。

後編では、ビジネスの世界から地域の団体へ飛び込んだことでのギャップや、その後東京へ戻ってから感じたギャップ、東北への想いなどについて伺います。

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