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特集記事 顔が見える関わりの大切さ…南三陸に移住して思うこと

リーダーがビジョンを語る6333viewsshares2012.07.17

顔が見える関わりの大切さ…南三陸に移住して思うこと

南三陸町南部の戸倉地区で震災数ヶ月後から現地のニーズと外からの支援とのマッチングを中心に活動している厨(くりや)勝義さん。復興支援に関わるきっかけは友人からの物資の支援依頼の電話だった。現地を訪れた際に「動かなければ」という衝動に突き動かされて活動を始めた。それから1年、復興に向けたまちづくりの推進力となるべく地元の方と共に活動を続ける厨さんに日々の活動や想いについて伺った。 【NPO法人(申請中)ラムズ 厨勝義】

―今の活動を教えて頂けますか。

ボランティアのコーディネートです。地元からニーズを集めて、来た方にそれを解決して頂くというようなことをしています。ボランティアセンターよりも個人的な繋がりで物事が進むのが特徴です。

―例えばどういうものでしょう?

東京にある企業がプロジェクトを去年始められて、瓦礫撤去等を手伝って下さっています。毎月来て下さっており、最近は福興市をお手伝い頂いています。

―こちらに来るきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

最初はガソリン携行缶が足りないと友人から連絡を受けたので、買って送ったんです。でも、当時宅配便は仙台局止になっていました。南三陸まではどこも配達してなかったんです。それが3月15日頃かな。その後、東北道が開通したので物資を持って行こうと思って調べたら、まだ仙台の支店にあったんですよ。

―送っても南三陸までは届かない状態だったのですね。

そういうタイミングでした。それで、3月27日に当時避難所だったながしず荘という民宿を目指して、初めて南三陸を訪れました。友達の大学の先輩が避難所の運営をしていたので、そこに。

―最初は物資を届けてすぐ帰ったのですか?

物資を届けた後、南三陸を一回りして帰りました。道路は瓦礫で埋まっていで片側通行だし、ぐちゃぐちゃでしたね。そこらじゅうに車があって、3階建でのマンションの上にも車が…

北上を通りかかったときには、元々田んぼだったのか集落だったのか分からないようなところを、自衛隊員が一列に並んで棒で地面をついて…人命捜索している最中でした。

―まだ素人ボランティアはやめた方が良いというような声もある時期でしたよね。

ガソリンが手に入らず車がガス欠になってしまったらお邪魔虫ですし、絶対に迷惑をかけないようにと食糧等を準備して行きました。

東京から友人2人と一緒に仙台まで向かい、仙台でもう1人と合流しました。彼に宅配便の支店からガソリン携行缶を受け取ってもらって、それも載せで仙台を出発。ナビはあっても土地勘が無かったので、仙台から運転を代わってもらって、北上川経由で南三陸町に入りました。

―当時どれくらい時間がかかりましたか。

すごく時間がかかるだろうと心配して早朝に仙台に着いて準備したんですけど、今とあま り変わらなかったですね。ただ、三陸道に通行許可証が要るの要らないのって話があっ て、県庁に行ったら「必要ないです」って言われたのですが… 三陸道の料金所で急遽発行していました。

―結局必要だったのですね。

必要なんだけど、料金所で発行していたから有名無実ですよね。通過するときに「ボランティアです」って言えばもらえました。明らかに段ボールを車内に積んでいたので理解してもらえたんでしょうけど。

―それ以降はどれくらい行かれたのですか。

10日に一度くらいは来ていました。ゴールデンウィーク(GW)はずっといたので、その頃に相当ボランティアを受入れましたね。一発目には水道復旧させようツアーをやりまし た。

―水道復旧?

当時、民宿にまだ70人くらい避難していらしたので、その人たちが水道を使えるように復旧を手伝うというツアーです。それまでは汲んで来た湧水を使っていたんですけど、水道が使えれば毎日風呂にも入れるという事で、お金がかかる水道復旧ですが、ツアー参加費から経費をひいた残りを資金にさせて頂いで、めでたく水道がひけました。そのボランティアツアーの方々以外にも、GWの頃は結構色々な方がみえました。今も継続的に色々 やってくれでいるのは、わりと昨年5月くらいまでに来でいる方々ですね。

―GW以降も度々いらっしゃったのですね。

はい。行きたいという需要に対して、それをコーディネートする側が追い付いていなかっ たんです。どこのボランティアセンターもパンクしていたし、必要な支援情報が届いてい なかったので、混乱を極めていたようでした。更に言えば、戸倉というところはあまり人が来ないんです。支援に来る方は大体石巻から三陸道を通って南三陸に入ってくると、幹線道路の45号線を通って志津川・歌津に入る。戸倉は398号線っていう一本細い道に入らなければいけないので、何の情報もないままだと来ないですね。

―ボランティアセンターからも、なかなか人は来ないのですか?

ボランティアセンターや行政はどうしても町の中心や一番人口が集中しているところから頑張ります。そうすると町の端っこにあって人口がそこまで多くない地区はどうしても後になりがちになりますよね。

―戸倉地区の被害はどうでしたか?

全半壊あわせて76%、ちょっと小高い山間部を除くと86%なので、町の機能が生きていない。南三陸町全体としても、行政機能が麻痺しました。最初に来たし、他の地域と比べても格段に被害が深刻だったので戸倉で頑張りたいなと。それで、何度も訪れる内に、もう住んだ方が良いんじゃないかという気がしてきて。

まず現地でのプレイヤーが足りないんです。外から来たい人は多いけど、コーディネー ターが足りない。だから、住んでしまえば役に立てるし物事はかどるのではないかと。

―なるほど。

僕の場合は商売も翻訳業なのでオンラインでなんとか出来ますし、行けない原因を探ると自分の躊躇だけだったんです。常日頃から「これだ!」と思ったらちゃんと行動に移したいなって。

―移住してから変化はありましたか。

支援団体や、人を紹介される事が増えました。移住したことで周りが本気だと思ってくれたのかもしれませんね。それに、現地にいるとより色んな情報が入ってくるんです。あとは、滞在期間が短いと地元の人の中でも特定の人しか分からないですけど、移住して戸倉での人の輪も広がったような気がします。

やはり移住して支援する相手の顔がよりはっきり見えてくると、自然と必要なボランティアも思いつきますし、何気ない会話の中からニーズが見えできたりします。例えば、お店 や色々な施設が近くに無く、域外まで1時間余計に通学・買い物に行かなきゃいけない。 すると1時間他のことが出来ないことになります。そういうことが地味に復興を妨げているんですよ。それに気付いたのが住んでからですね。

―移住後はどのような活動をしていますか。

南三陸ボランティアセンターの戸倉サテライトのリーダーだった渡辺さんという方と一緒 に活動をしています。渡辺さんが地区内のニーズを挙げて、僕は外からボランティアや支 援を呼んでくる役目を。時間が経つにつれて、既にボランティアでいらっしゃった方や、見学等で来た方も一緒になりました。さらに仮設住宅に落ち着いた後、地元の方も自然と物資配りとか「一緒にやります」と言ってくれる方もいます。

―もう震災から1年経ちましたね。

そうですね。でも、1年経ったからといって感慨に浸るということはなかったです。ただの通過点という感じでした。ただ、こんなに進まないとは思ってなかったです。

特に1年後こうなるってプランを描いた訳じゃないですが、新しいお店が開いているみたいなイメージはありました。でも、未だに街中には瓦礫があるんですよね。1年経ったのにまだこれが片付いてないのか、というのは、改めて気付くとショックです。

この地区の小中学校は4月から志津川に間借りしますが、保育園は噂も無い。この近くで 家を新築した所もまだ無いですね。もし、震災直後に「1年後に何軒くらい家建ってる思 いますか?」って聞かれたら、多分僕は0とは答えなかったと思います。

―そんな状況で地元の方々がどんなことを求めていると思いますか?

人や地域によってバラバラなので、一つじゃないという事は確かです。

―では、支援する側はどうすれは良いのでしょうか。

はじめのころから「最初に持ってきた案は大体通用しないので、まず見て現状を知って、 それを改善してまたトライして下さい。」ということを言っていました。現場を見ないまま考えられた案は、やはり机上の空論になりがちなので。どの立場でも明日の事を考えて1個1個やっていくしかないのかな、と。

―これからも戸倉での支援に関わっていかれると思うのですが、いままで関わりが無かった厨さんをひきつけるものって何なのでしょうか?

一番困っている所を助けたいという想い、それに縁ですかね。インフラ復旧の段階は終わっても、まだまだ課題はあります。あとは、海とか山は他所もきれいですけど、人の顔が見えるとやはりその土地の見え方も変わってきますよね。だから、戸倉という場所にこだわるというよりも、目の前にいる戸倉の人たちのお手伝いをしたいんです。

―人の顔が見えると思い入れが強くなりますよね。

それで何回か来てくれたら、復興を一緒に見ていけるのではないかと思うんです。自分が 瓦礫片付けた所に花壇が置かれたとか、ありがとうって言ってくれたおばちゃんが店を開いたとか。そういうことを知るだけで、なんか元気になることができますよね。

―確かに、ボランティアの方が元気もらうってよく聞きます。

朝、船が操業しているのが見えると、日々見ている僕らも元気づけられるというか、一歩 一歩進んでいるのを感じられるんですよ。その過程をボランティアで来た方にも共有してもらって、3年、5年後にいよいよ町がきれいになっていったときに、「昔は大変だったけど、今はこんなに良くなったね」っていう過程を一緒に歩めたら良いんじゃないかなっ て。

ボランティアに加えて、観光を通じてお互い良いお付き合いが出来ると思うんです。物資配布などの支援っていうのは一方通行なので、ありがたい反面、誇りが失われる事もある ようで…自信を無くすというか。

ただ単に物を持っていれば幸せなのではなく、貰ったものか自分が頑張って手に入れたかで結構違ったりする。仕事をして、対価をもらって、そのお金を使って物やサービスを手に入れていくっていうことが精神的にもどうも健康的なんですよね。

―健康的。
自信になって、それが次のアクションにまた繋がっていくと思うんです。

―ひとつずつやるしかないですね。

はい。あとは支援に関わる企業や学校が、本来の力を使って支援できるようにやるといいのだろうなと思います。例えば、大学は過去の成功モデルを勉強して転用したり、政策提言ができるかもしれない。企業であれば、今この辺で直面している超高齢化や人口流出は他の地域でも近い将来直面するであろう問題なので、今ここでそれに対処できるようビジネスをできれば、他の地域でも活用できますよね。

―新しい形が生まれるかもしれないですね!ありがとうございました。またお話聞かせて下さい。

聞き手・文:加納実久(ボランティアライター)

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