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特集記事 「働いてないと狂っちゃいそう」という言葉の重み。

1753viewsshares2011.07.06

「働いてないと狂っちゃいそう」という言葉の重み。

被災地に仕事を創ろう――。

仙台の南にある名取市で、そんな目的のプロジェクトが動きはじめた。障害者・一般雇用あわせて40名の雇用創出を目指し、畑・野菜加工工場・蕎麦屋・パン屋などを並行して立ち上げていく。今回は、リーダーの島田昌幸さんにお話を伺うために、六丁目農園というレストランにやってきた。1次産業の支援に携わっていた彼は、地震後すぐに救援本部をたちあげたそうだ。【東北Rokuプロジェクト・島田昌幸(1)】

―今のRokuプロジェクトを手がける前はどういったことをされていたんですか。

1次産業の支援みたいなことのお手伝いをずっとしていたんです。紆余曲折はいろいろありましたが、ある方のご縁でマルシェジャポンというのを企画して現在では、週4回の開催で年間90万人お客さんがくるようになっています。

―90万人はすごいですね。

「市民の生活の一部にしよう」ということをコンセプトにしていて、1万人の人が来るのではなく、100人の人が100回買ってくれる仕組みを考えました。スーパーに来てくれるような感覚でみんな来るようになるので、売上も順調に推移しています。

-Rokuプロジェクトはどういう経緯ではじまったんですか。

もともと、今年の10月に立ち上げようとしてたプロジェクトなんですよ。で、震災のあと何をしようかって思った時に、やっぱり僕たち1次産業従事者の支援をやろうと。あと、いろんな人と電話して現地へヒアリングに行ったんですけど。そうしたら「働いてないと気が狂っちゃいそう」という言葉を頂いて早急に働く場をつくらないといけないなと。

―地震のときはどうされていたんですか。

事務所にいたんです。いきなり「うおー」ってみんな叫んでて、テレビつけたら津波10mって報道されて、家に娘と嫁がいたんで、まず助けにいかなきゃいけないって思い、そのあと、家に帰るのに9時間か12時間かかったんですよ。

―どこに住んでいたんですか。

家は名取なんです。名取に津波がくるのがテレビで見えて。何が起きてるのかよくわかんないし、渋滞がひどくて。

―家にはたどりつけたんですか。

家は水没は免れましたが、100メートル先まで津波が来ていました。自分たちが逃げてた道も水没していて、飛行機とかが、ぷかぷか浮いているようなとこを逃げてきてたんです。

―ああ、空港のそばですね。

そうです。で、娘と嫁と友達を連れて逃げました。

―合流できたんですね。

娘と嫁と友達と、赤ちゃんづれの主婦の方が1人でいたので、可哀想だから車に乗せて。3組で逃げました。そして山奥の避難所で1日滞在させていただいて、翌日にマルシェの救援本部たちあげました。会社に、シチューとかカレーとかの在庫があったものを活用して、地元の有志を募ってまず300人前の炊き出しを目的地がないまま、車ある台数で、みんなで三々五々散らばって、炊き出しをずーっとやってました。散らばって、「どうだった?」みたいのを共有して、それをずっと繰り返してですね。東京の運送会社のウィンローダーさんが1週間くらいで救援に来てくれました。でも、被災地では、ボランティアがまだ入ることができない空白の1週間がありました。

―最初の1週間が大変だったんですね。

知人から「お前、本かけ」って言われたんです。「空白の1週間」っていう本。最初は、自衛隊でもなかなか入れない時期もあったんですよね。「そのときのことをちゃんと整理しないと」って言われて、書こうかなって思ってはいるんです。

―何か強烈なできごととかはありますか。

本当に厳しい話、いろんなものが浮いてたり、ぶらさがってたりしてるときだったんです。僕が強烈だったのは、お父さんが自分の娘を川からひきあげてんのを見たときに、「俺はひけないな」って思ったんです。「これはやめられない」と。

―やめられない。

自分にも娘がいましてね。あの時、あるお父さんが自分の5~6歳の子ひきあげていて、自分の娘だったらと想像すると、気を保つことさえもできないのではと思いました。でも避難所に言ったら悲しいことや辛いことは誰にも言えないんです。結局、「自分は娘1人でよかった」って考えなきゃいけない。隣の人は娘も親も死んでる人、そして、自分以外は全員犠牲になってしまった人で埋もれていて、避難所には捌け口がない状況でした。そういう体験を通じて「やんなきゃ」って。

―他になにか印象に残っていることは。

3日目4日目くらいから、避難所の運営に差が出始めていて、運営者に依存したり責任を押し付けたりという雰囲気がありました。当初は、炊き出しや物資の供給などの順番は並ばないし、いろんなところがバールでこじあけられているのをみて、こちらも、バールハンマーを携えて命がけという感じでした。

―確かに知らなかったなあ。

4日目や5日目くらいになると、「今日はこの道とおれる」とか感動がありましたね。最初は何とも言えなくて、戦争を経験していない自分ですが、戦争の跡地みたいな。

当初は、瓦礫撤去しながらつきすすんでいく感じでした。1回水没で死にそうになったり結構キツイ状況でした。

―えっ、死にそうに。

海水で、車が半分まで埋まったんです。満潮とあたっちゃって、行ったはいいんですけど、帰ってる途中に水位があがってきて。みんな顔が興ざめしてて無言になって。ぶるるるるん、って思いっきり車をふかして逃げたんですけどね。背筋がゾクゾクじゃなくてビリビリきました。そんな中で、炊き出しと物資の供給をしてましたね。

―炊き出しや物資の供給で気をつけてることとかありましたか。

僕たちのやり方で、すごく気をつけてるのは、自分達がやってやってるという姿勢ではないということと、町の人たち自身が自分たちのことは自分たちで行うという意識を伝えながら救援活動を行っていました。

「トラックから物を下ろす協力をしてください」と言いながら、自分達が物を下ろして、自分達で秩序を保って、自分達でやれるようにならなきゃいけないわけですよね。復旧におけるボランティアって、やりすぎると地元の人が依存しちゃうんです。でも、ボランティアの人たちって「かわいそう」って思ってるから、何かをやってあげようとしちゃうわけです。

―もっともですね。

ケンカとかにもなりましたけどね。ペットボトルの本数が理由で。最初5本配る予定だったペットボトルを、皆に配りたいから2本ずつにしたんです。そしたら「最初と違うじゃないか」と相手が怒り出して、言い返したりね。僕たちだと、自分達も被災して、家の中がぐちゃぐちゃだし、対等なんですよ。これがボランティアの人だと、謝ってる形になってしまうので当初は話にならないわけです。

―同じ立場なんですね。

「てめぇ、俺も被災者なんだ、おまえふざけんなよ」って言うと、みんな「はっ」て気づくわけですよ。で、ちゃんと並んだりするようになる。最初は、制圧するかされるかみたいな状況でした。多いときは2000人対8人ですから、暴動とかになるとこっちがやばいわけです。なのでそこを制圧するテクニックが必要でしたね。「文句言うんだったら帰る」とトラックのドアを全部バンバンと閉めて、かましたりね。

(続く)

聞き手:中村健太(みちのく仕事編集長)/文:田村真菜(みちのく仕事編集部)

■インタビュー続編はこちら:まっぱだかで1週間…90年後の君へ伝えたいこと。


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