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特集記事 1対1の支援をつむいで、牡鹿ブランドを育て上げる。

私にとっての右腕体験6256viewsshares2011.12.27

1対1の支援をつむいで、牡鹿ブランドを育て上げる。

石巻市の牡鹿半島を中心に、浜のお母さんたちと共にコミュニティの再生を目指す“つむぎや”。前回のインタビュー以降もフェーズの変化に合わせながら活動を続け、自分の針路を模索する鈴木悠平さんに現地での「今」を伺った。【地域の未利用資源活用とコミュニティ再生プロジェクト(つむぎや)・鈴木悠平(2)】

―まずはじめに、今の役割を教えて下さい。

一般社団法人つむぎやという団体で、牡鹿半島の漁村をいくつか周りながら、現場の人々とコミュニケーションをとりつつプロジェクトを進めています。現場以外では、団体内事務局、ファンドレイズや広報・PRの仕事も行っています。

―「つむぎや」はどのような経緯でできたのですか?

「つむぎや」の代表である友廣裕一が、「つなプロ(被災地をNPOとつないで支える合同プロジェクト)」というプロジェクトの派遣枠で、3月17日から石巻市入りしたのですが、彼が担当したのが牡鹿半島や雄勝町地域だったんです。彼が避難所のケア等の活動を続けながら現地の人々と関係深めていく過程で、「津波で舩や道具、工場も流されて仕事がなくなってしまった。自分の仕事や役割が欲しい」といった声を多く聞いたんですね。そこから手仕事作りということで、まずは漁網ミサンガをつくるプロジェクトが始まったわけです。(当初は、「つむぎや」設立以前に友廣裕一が立ち上げたボランティア団体「トモノテ 緊急支援プロジェクト」の活動の一環としてミサンガづくりがスタート。現在、トモノテは中川千鶴氏を代表に雄勝を拠点として活動、つむぎやは引き続き牡鹿半島鮎川浜・新山浜の女性グループが製作した漁網ミサンガの販売支援を行っている。)

―現場のニーズから始まった。

はい。作り手である漁村の女性達のことや現地の被災状況など、商品と共にその背後にあるストーリーを伝えながら僕達が各地で販売しています。その売り上げを工賃として彼女達お支払いするという形で、個人の副収入と地域のための復興資金を作り出しています。

―どういうチームで動いているの?

僕以外に、3年働いた会社を辞めてこちらにやってきた方がもう一人いて、2人が友廣さんの右腕派遣枠として現地入りしました。あとは、石巻出身で9月に東京の大学を卒業した女の子が、短期プロジェクトスタッフとして実家から毎日来てくれています。

―つむぎやは、友廣さんを含めて主にその4人なんですね。

専従スタッフはその4人で、デザイナーの方や弁護士・税理士の方など色々な方にサポートしていただいています。

―はじめは、木の屋さんのお手伝いもしていましたよね。その後はどうなったのですか?

工場での被災缶詰拾い作業は8月上旬には終了し、その後続いていた缶詰洗浄作業も先週の土曜日には終わったんです。

―つまり11月12日に缶詰の仕事は終了した?

はい。木の屋さんが、希望の缶詰を全国に届けるにあたって、僕らも工場での作業や販売のお手伝いをさせて頂いきました。10月からは、岩手県の工場にOEM(受託生産)で生産してもらった鯨肉の大和煮缶詰が生産・販売を再開・販売してるのと、レトルトの鯨カレーっていう2品目で復活してます。

―なるほど。そういう中で、今は具体的に日々何してるの?

漁網ミサンガに続く手仕事プロダクトとして、’OCICA’というブランドがデビューし、その生産サポートや販売・プロモーションを行っています。鹿の角と漁網を使ったアクセサリー(写真参照)なのですが、これも漁村のお母さん方に作っていただいているんです。9月末頃から、毎週火曜日と木曜日に牧浜という漁村に訪問し、製作作業が始まりました。石巻2.0という団体が手がけた工房が駅前商店街にあるのですが、そこで輪切りにした鹿角をお母さん方のもとへ持っていくんです。彼女達がヤスリがけや糸巻きを行って商品が完成します。集会場に集まってお喋りしながら楽しく作業しています。「この人は、こういう作業がすっごく上手だな」とか、一人一人の様子見たりお話をお聞きしながらコミュニケーションを取り、得意な作業にはより力を入れてもらったり苦手なところはフォローしたりしながら、グループ全体の生産ペースや品質を向上させていきます。合間の曜日には次の制作作業日に向けた準備をしたり、漁網ミサンガを作っていただいている鮎川浜・新山浜を訪問したりします。コアの現場としてこの2カ所があって、物販等の用事で東京に帰ったりもします。

―それ以外のときは?

やることはホントに沢山あって。助成金をとるために、書類の作成や提出などもしていますし、商品の出荷や広報もします。1週間があっという間に過ぎますね。そのリズムが固まってきたのが、この浜に訪問してアクセサリー作りをはじめた9月末からなんです。まだ2ヶ月経ってないんですよね。

―2カ月。

それでも、短い期間の中でもなんとかアウトプットが出てきたから少しホッとしました。その前になかなか大変な時期があって。7月に移住して、8月に色々な浜をまわって鹿角のプロジェクトの提携先を探してたんですけど、なかなか見つからなかった。作業場があって、更にやる気がある人がまとまった数必要になる。副収入とコミュニティ再生を目指しているプロジェクトなので、その必要がないくらい漁業が再開できたらそれは良いことだし、やる気がないところで無理やり鼓舞してやるのも違う。それで、なかなか条件がバシッと合うようなところが見つからなくて。「今日もダメだったな…」というように、厳しい時期があったんです。

―他の集落でも、一緒にやりませんか?っていう提案をしたのですね。

そうです。でも、最終的には今お付き合いさせていただいている牧浜の方々とかなり仲良くなって。

―なるほど。

漁網ミサンガは完全ボランティアのプロジェクトとして始まったのですが、鹿角アクセサリーの方は動き始めた時期も少し遅く、現地の状況も移り変わってきていたので、事業として持続可能な形で実施しようということになり、またコンセプトやデザインもしっかり固めようということで、デザイナーさんの力をお借りしています(課題解決型デザイン事務所「NOSIGNER」の太刀川英輔氏がロゴ・プロダクトデザインに協力している)。漁網ミサンガを作っていただいている鮎川浜・新山浜でも、ミサンガの売り上げや助成金を利用して地域に新たな飲食店を作ろうという試みが動き出しています。プロジェクトによって形は色々ですが、地域の人と共に歩みながら、コミュニティを作り、育てていくことがつむぎやの活動の共通点だと思います。

―地震が起きてから8ヶ月経つわけですが、心境の変化はありますか?

もちろん。やっぱりボランティアで週末などにこちらに来ていた頃って、変な気負いがあったのだと思います。ちゃんと成果を出さなくちゃとか、支援してくれている人の期待に応えなきゃとか。自分の中で勝手に物事を大きくしてた部分が大きかったと思います。でも、最近は、良い意味で自分がまだ「若い」ということに開き直れたというか。まだ社会人1年目の若造で、絶対的に経験が足りないし知らないことも多い。ある程度失敗や挫折をするのは仕方ないというか、当然のことじゃないかと。失敗したり、うまくいかないことがあったなら、それを正面から受け止めて、何がダメだったかちゃんと分析して、次に活かしていくしかない、トライ&エラーを淡々と続けていくだけだって思いました。

―それが変化したキッカケは?。

いくつかあって…50年以上、地道に良いものだけを作ってきた木の屋の皆さんや、昔から自然の恐ろしさと戦ってきたたくましい漁師さんたちの姿を見て、その生き様と、背後に積み重なった時間の厚みのようなものを感じて。最初からみんな一流なわけじゃないんだから若造が焦ったってすぐに結果が出るわけないって再認識しましたね。あと、友廣さんの影響は相当大きいと思います。あの人は、肩書きとか所属に殆ど縛られないでいて、自分と関係があった人と、淡々といい仕事をしていくっていう自然体のスタンスでいるから、彼の言葉には虚飾とかウソがないんです。だから、誰にもストレートに届く。「実態以上に自分のことを大きく見せたら、ロクなことないから」って。

―なるほど。それはどういうことなんだろう?

多分、安心に近いんです。一瞬忘れかけてたんですけど、僕が昔大事にしてたところに戻って来れて、「あぁ、間違ってなかったんだろうな」って。それが、ボランティアの頃からの変化の2つ目なんです。友廣さんのスタンスで、「支援活動をしている人」という一面的な立場ではなく、ここに生きる1人の生活者として、大文字じゃない小文字の、1人の人間として、なるべく丁寧に物事を見ていくっていうのが大事なんだろうな、と。

―うんうん。

「大震災」という大きな枠組みではなく、その土地や人が抱える問題や痛みを、なるべく個別具体的に捉えることを心がけています。この震災で、津波や地震が大きな被害をもたらして、たくさんの人が亡くなった。死傷者の数といった、額面上の数字は大きいけれど、人やものを失ってた悲しみは、その当事者一人一人にとってミクロな、個別具体的なものでしかなくて。そして大震災の報道のその裏ではニュースにならないような小さな原因で他殺・自殺で死んでる人も多くいるわけで、そこで失われていく命や悲しみは、報道量とは関係無く平等な重みを持っていて、各当事者にとっては、絶対的に重要な出来事であるのだと思うんです。自分もいま石巻にいて、出会った人の色々な問題や悲しみに触れるわけですが、そうした人々に寄り添おうという気持ちが生まれるのは、それが「未曾有の災害だから」とかいう理由付けではなく、ごくごく個人的な共感や、その人との個別具体的な関係性から生まれてくるものです。

―一括りにできないですよね。

ざっくりと「被災者」っていう集団で括って見ちゃうと、目の前の人の問題の本質を見誤ることがあるんじゃないかなと思うんです。異なるバックグラウンドを持つ人と共に生きることを考えさせられるエピソードが今までにあったので、それが自分のテーマになってます。

―肩に力が入って突き進んではいたんだろうね。それが良いときもあったかもしれないけど。

4~5月くらいは、それが良い勢いを生んでくれていたとは思います。6~7月になると、意固地になってあまり良い方向に働かなかったな、と。

―でも、色んな人の背中とかを見て…。

「今までの延長じゃん」って。

―今はどんな感じですか?

仕事に関しては、とにかく毎日やれることを堅実にやっていくしかないですね。個人の進路選択はまだ迷っていますが、考えに考えた上で、最後は直感で決めなきゃいけないんだなって。つむぎやの仕事として’OCICA’のプロジェクトや鮎川浜・新山浜での建設プロジェクトを丁寧に育てていきながら、僕自身も一緒に成長していけたらと思います。他にも、漁村体験型のスタディツアーみたいなことを準備しているのですが、今後はこうした種々の手段を通じて、災害ボランティアとは別の形で継続的に石巻への注目を集め、地域のファンを増やしていくことが重要なんだと思います。地元の方々も意欲を見せてくださっているので、年明けくらいから試しにやってみますかっていう話をしています。

―個人としてはどうですか?

入学を延期したアメリカの大学院が、来年の8月末から始まるんです。先週この取材があったら、「つむぎやに2年間いようと思います」って答えてたと思うんですけど、今はちょっと違うんです。この週末に東京に帰って色んな先生に近況報告や進路相談してきて。

―うん。

ここに来て、もうひとつの収穫が、コミュニティづくりに関わる仕事や勉強を何かしらやっていきたいなって気持ちがすごく強くなったことなんです。そしたら、つむぎやにもっと長くいるという選択肢も浮上してきましたけど、合格した公衆衛生の大学院でも、コミュニティに根ざしたケアのあり方などを追求していくこともできそうです。国や大学院、仕事の種類を問わず、色々と他の進路も考えられそうです。

―選択肢広がったんですね。その中でどれが一番ピンと来ますか?

今朝の時点では、やっぱ来年アメリカに飛びたいです。若いうちに、ずっと国内に居続けるのではなく、一度全然違う環境に飛び込んでみて、自分の幅を広げようとすることにも大きな可能性があるんじゃないかって思います。つむぎやに戻ってくるみたいな選択肢があったとしても、より力をつけて帰ってきて再会したいと思ったりもしますね。

―若いときはボキャブラリーが少ないって思うんです。まだ小さな子供が「サッカー選手やケーキ屋さんになりたい」って言うのは、職業のボキャブラリーがないから、それしか思いつかないからで。自分が知った言葉、つまり働き方や職業を繋げて、自分の物語を作っていけばいい、僕はそう思います。

「誰かに答えをもらっちゃダメ」って想いながら… 毎日、振り子のように心境が変化してる感じですけどね。

―そうなんですね。最後に、何か言っておきたいことありますか?

僕は、これからの生き方や働き方というものにも興味があるんです。今、生活や働くってことを、正面から素のままで捉え直す時期が来てるんじゃないかなっていうのが、直感としてあるんですね。つむぎやもそうですけど、田舎でも外と交流が生まれることにより、新しいものができてくる。都市と地方が流動化して交わっていくような時代が来るんじゃないかと思います。その中で、人々が、自分の働く環境や暮らす環境を、色々と比較しながら考え直していく必要があるんだろうな、と。

―流動化?

いずれ、都市でも地方でも、各地の現場哉様々な分野の担い手たちが緩やかに繋がって、情報交換したり移動したりながら交わって、ボトムアップで日本が変化していくみたいな時代が来るんじゃないかなって。政治家や大企業のリーダーみたいにマクロに影響力を発揮する人がいる一方で、ミクロからの積み上げていくなかで、政策とか、意思決定もしていけるような感覚がおそらく必要になるんじゃないかなって。そういう人に、いずれなりたいと思ってます。

―ミクロを積み上げる人に?

はい。若いうちに現場でしっかり経験を積んで、その後、現場からの突き上げが起こりやすい流れや環境作りにも役立てればな、と思います。

―形になっていくといいですね。本日はありがとうございました。

■右腕募集要項:地域の未利用資源活用とコミュニティ再生プロジェクト(募集中)

■前回の鈴木悠平さんへのインタビュー:42万個の泥だらけの缶詰を1つ1つひろう。

OCICA-ソトコトオンラインショップ (トップ写真のネックレスはこちらから購入が可能です)

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