私にとっての右腕体験
自分なりに考えること。素直な自分でいること。
被災地をNPOとつないで支える合同プロジェクト、つなプロ。そのつなプロに参加し、気仙沼大島における瓦礫撤去の現場でボランティアの指揮などの活動にあたった岡田さん。大島は気仙沼の桟橋から船で30分ほどのところにある島で、大きな被害を受けた場所です。つなプロの活動を終え東京に帰ってきた今、心に思うこととは。ありのままに感じたことをお話ししていただきました。【つなプロ気仙沼大島・岡田健人】
-まずは、なぜ被災地に行きたいと思ったのか聞かせていただけますか。
長野でスノーボードのインストラクター見習いのようなことをずっとやっていたんです。震災のあった日も大雪だったので、「ちょっと滑り行くぞー」って思ってて。その時にちょうど地震があったんです。板のビンディングを外して板を変えようとしていた時にゆる―い揺れを感じて、「やべえ、ちょっと立ちくらみかなあ」と。本当に今までにない揺れだった。でも、まあ大丈夫かってリフトまで行ったら止まっていて。その後リフトは再開して滑りに行って泊まっているホテルに帰ってきて、荷物置き場の所で寝ていた。ロビーのテレビにはちょうど仙台空港が映っていて、「何これ?」って思いました。「え?これ本当に起こってんの?日本で?」って。
-本当に信じ難い光景でした。
シーズン終わるまではそこにいなきゃいけなくて。もうiPhoneの電波入らないような場所で、情報も入ってくるのはテレビくらいで、「うわあ、どうしよう。何が出来るんだろう」と思ってて。それで、そこで一回行くか迷って「行かなきゃな」と。金もないし、電波も入らないし、情報もないし、これは直接行くしかないなと思った。すぐにでも被災地に支援に行きたかったんですが、今の仕事をやってからにしようと思って。だから5月まではずっと仕事をしていました。それで、5月まで経ったときに、自分の中ではすごい落ち着いちゃって。
-落ち着いたというのは、気持ちが色褪せてきてしまったということですか。
震災直後は映像見てすごい衝撃的で悲しいというか、すごいショックだったんだけど、日が経つにつれてそこから何も感じなくなったんです。多分、知り合いとか、身近で亡くなった人がいなかったからなんだろうけど。「こんな冷めてたっけ、自分」と思うくらい。それで、関東に帰ってきたときにちょうどシェアハウスのメンバーがつなプロに参加してて、「俺も行きたいから紹介して。行く機会があったらまた連絡して。」って言ったら、その次の日にもう電話かかってきて、すぐ行くことになったんです。瓦礫撤去の班に入って、次の日にはおばか隊に挨拶しました。
–おばか隊とは何ですか。
地元の若者ボランティア集団みたいなものかな。もともと大島には漁業や養殖をやっている人達が多くて。そこで家がなくなって、家族もなくなって、仕事もなくなって、それでも震災直後から島のために動いている人達がおばか隊です。
-そのおばか隊の方達に挨拶に行ったと。
はい。それで瓦礫撤去をすることになるんですが、その時はまだ現地の人達で撤去をやるっていう状態ではなくて、ボランティアさん達が来て勝手にやってるような状態でした。ボランティアさんの入口が一つじゃなくて、災害対策本部に来るところもいれば、勝手に来てやっているところもあったり、他のところから連絡がいったりしてたところもあって、もうめちゃめちゃだった。それで、俺が行った次の日に災害対策本部に「ボランティアしたいです、瓦礫撤去したいです」って連絡が入り、名古屋の大学から100人来ることになったんです。でも、おばか隊もこんな大人数は受け入れたことがなくて。だから、これはチャンスだと思ったんです。俺らがしっかり現場回して、現場のノウハウを作っていこうと。それで、次の日には100人の現場を担当して。
-現場を回すというと、具体的にはどういったことをされたのでしょう。
瓦礫撤去の監督役として100人の指示と、どういう風に行動するか教えたりしました。あれは大変だった。すごい焦りました。でも、そこをつなプロとおばか隊でなんとか乗り切って「いやあ、よかったね!」ってなったんです。そこで、問題点とか「あ、これはこうしたほうがいいですよね」とか改善点も色々見えてきて。だったら、足並みを揃えてやったほうがいいよねということで、つなプロやおばか隊で事務局を立ち上げたんです。
-自分達で事務局を立ち上げられたのですね。
その事務局を立ち上げる時くらいから事務局、瓦礫撤去、アセスメント、物資の4つに分かれました。瓦礫撤去は、自分達でも現場に入ったり、おばか隊と一緒にやったり、ボランティアさんが来たらコーディネートをしたりした。それで、事務局が立ち上がってきたら、入ってきたボランティアさんを振り分ける人がいて、俺が現場での監督っていう形が出来上がってきたんです。そこからはうまく回せるようになってきたんだけれど、最初はすごく事務的だったんです、俺。
-「事務的」。もう少し説明していただけますか。
最初はマンパワーとしてボランティアさんを見ていて。「今日やるのはコレとコレで、こういうことをやっていきます」ってもう全部やることを決めて、それをやってもらうだけでした。でも、来てもらう人にはやっぱり何か持って帰って欲しいなあと思うようになっていったんです。せっかく時間をかけて、自分のお金で大島に来てくれているんだから。なんかやっぱりもっと、現場で感じられるものとか持って帰って、自分のプラスにして欲しくて。そのためには、おばか隊と一緒にコミュニケーションを取ってもらったりしたほうが間違いなくいいなあと思ったんです。それで、徐々に俺らも現場から引いて、おばか隊のみで現場を回せるようにしていきました。最初はスムーズに出来なかったんだけど、徐々にうまく回り始めてきて。
-もっと何かを持ち帰ってほしいという心境に変化したのはなぜでしょう。
ただの労働力と見なしているだけでは、なんか心が痛かった。バイトだったらいいんですけど、無償で来ていただいているのにこれはなんか違うなあと思って。自分のお金を払って、自分の時間をかけてボランティアをしているのに、俺らがやることを全て決めてしまっていた。そういうのではもったいないなと。それだったら、現場のことをもっと自由にやってもらったり、来ているメンバー同士での連携を自然とやっていけたらいいんじゃないかなって。だから、マニュアルとかをガッチリとしないで「現場ってこんな感じです」くらいの雰囲気でやっていけば、自分達で考えて効率よくやっていけるようにしていきました。そういう寄り添う気持ちを無視して、やり方を事務的にしてしまうと、全く意味を為さないと思いました。
-なるほど。大島での日々を振り返ったものを読ませていただいたのですが、エリアマネージャーである川崎さんへの感謝が綴られていました。活動の中でそういう姿勢を学んだ部分もあるのですか。
本当にそう。最後の最後に、言ってることがちょっとずつ分かってきました。
-例えば川崎さんはどのようなことを言われていたのですか。
常日頃言われていたのが、「お前のロジックに人はついてきていないんだぞ。お前の姿勢に人はついてきてくれるんだよ」と。最初は、何言ってるんだろうなと思っていました。その頃は「あの人はすごいなあ。なんでこんなに出来るんだろう」と思っていて、いつも真似ばかりしていました。自分ができることを棚に上げて、まわりの人目を気にしてばかりいたんです。でも、そういうことをしていても、なんか気持ちよくなくて。自分が考えて「コレやろう!」ってなった時と動くエネルギーが違うなあと感じていました。
-それはなぜそう感じたのでしょう。
例えば、誰かが何かやる時に、それをやるまでにどういうことがあってこの行動に至ったっていう経緯がその人の中であると思うんです。そこを自分が理解していれば多分動いていて気持ちよくて、スムーズだと思うんですよね。でも、このプロセスをとばして、まわりの結果だけを見て真似していたから多分モヤモヤしていたんだなあって。川崎さんには、人目を気にしないで自分なりに考えて、素直な自分でいることの大切さを教わりましたね。そっちの方がスムーズだし、色々できることも増えていくんだなあと。
-素直でいることの大切さですね。他に何か得たものなどありますか。
でも、被災地に行って何が出来るようになったかって、何も出来るようになっていないと思う。自分らしくなれたくらいですかね。あと、得たものというより嬉しかったことなんですけど、大島を離れる前に、今つなプロがどういうことをやっていて、どういうスタンスでやっているかということを、大島で活動している団体や、おばちゃん達とかおじちゃん達、ボランティアクラブに色々と話しに行ったんです。その時に大島という場所について3時間くら結構本気で言い合ったんだけど、そういう真剣な思いを持っている人もいるんだなあっていうのが、とても嬉しかったですね。
-最後に、今後は大島とどのように関わっていこうと思っているか聞かせてもらえますか。
今、大島にいるおじいちゃんおばあちゃんとかも、今までずっと大島に住んでて、思い出があるわけです。さらに、そのもっともっとおじいちゃんとかがいて大島があるんですよね。それに加えて今住んでいる子供達もいて。そういうところを考えると、大島にはたくさんの背景があると思うんです。その人達の思いとかを汲み取れたらもっと色々わかってくるのになあ、とは思います。いま大島や被災地で起きている仕事などの問題も、現地の思いを汲み取って大切にしながら、考えていけたらなあと思っています。
―ありがとうございました。
聞き手:玉川努(ETIC.スタッフ)/文:寺本涼馬(ボランティアライター)