42万個の泥だらけの缶詰を1つ1つひろう。
宮城県石巻市北東に位置する牡鹿や雄勝を拠点として、漁師さんや主婦の方、水産加工業者などが自立に向けて歩みだしていけるよう小規模ビジネスを応援していくプロジェクトがある。「石巻沿岸地域の未利用資源を活用した産業復興支援プロジェクト」だ。今回は、そのプロジェクトリーダー・友廣裕一さんの右腕として、現地で1年間活動予定の鈴木悠平さんにお話を伺った。
-最初に現地に行ったのはいつ頃でしたか。
鈴木:4月8日から10日に初めて牡鹿に行きました。物資の仕分けで終わったんですけどね。
-どういうご縁があったんですか?
鈴木:友廣さんという現地で活動している方がいるんですけど、その友廣さんとシェアハウスで同居しているのが僕の大学学部のゼミの先輩だったんです。いつも勢いで動く人で、僕の兄貴分のような先輩なんですけど、その人から「来週被災地行くぞ」というメールが急にきたので、「わかりました、行きます!」って。「行き先決まっているんですか」って聞いたら、「決まってない」、「またいつもの見切り発車ですね」、「すまん、車だけ予約しといてくれ」、「わかりましたよー」って。
-実際に行ってみて、どうでした?
鈴木:いかに1人の力がちっぽけかを感じました。うずたかく積みあがった服を仕分けても、来た人たちが皆どんどん取っていって、ぐちゃぐちゃになって、「わー」と思って。でも一方で、ピンポイントで人手が足りてなくて、帰るときに「明日から男手7人減るの、心配だわ」って。その仕事は次の日以降も続くから。一度にできることの小ささを実感した一方で、小さい中でもそれはゼロじゃない。やれるならやらなきゃなって思いました。で、帰りの車で先輩が「ゴールデンウィークは1週間空けていこうな」って。
-それで、ゴールデンウィークにもう一度?
鈴木:行きたいという人55人で、「とにかく人手として何でもやるんでまわしてください」って1週間行ってきました。「Last One Mile Project」って、名前が後からついたんですけど、そういう団体をつくって。元々はIT用語で、光ファイバーとかケーブルを最後の個別の家に届かせる、手間のかかる最後の一工程のことで、3月はインターネットで情報が飛び交ってたし、いろんな人が動いてたけど、牡鹿のようにピンポイントで人手たりてないところもあるんだなって思って、そういうところに届くプロジェクトにしたいと思って名づけました。そこに身支度と覚悟だけして働きに行こう、みたいなコンセプトが、走りながらだんだん固まってきて。
-なるほど。これからはどういう展望ですか。
鈴木:さて、どうやっていこうかと。僕はいつも流されながら生きていて。流れとか他人からの期待に応えることも大切なんですけど、その中で自分は何ができて何を本当になすべきなのか、時にはしっかり「いかり」を下ろすというか、自分のなかで大事なポイントがどこかってしっかり認識しながら進んでいかないとと思ってるんです。僕は1年留学を延期したんですけど、留学先での勉強にこの1年での復興支援での活動って絶対役に立つだろうし、当初の予定通りに行った時より豊かな学びができるように、今年1年よく考えて動かなきゃいけない。といっても、復興支援は留学のためのツールでもないから、目の前の、たとえば木の屋さんの缶詰1つ1つとか、現地の仮設住宅の1人1人や、プロジェクトの仲間のことをよく見て、毎日丁寧に動かなきゃなと。
-降ろす「いかり」は、留学を見据えた動きと、現地での動きの両方を丁寧に取り組むってことなのかな。もうちょっと別のこと?
鈴木:まだちょっと整理できてないんです。4月以降、5回くらい被災地に行ったけれども、まだ仕事を回してもらって体を動かすという状況です。もっと現場の問題をちゃんと深く理解して、実務家として仕事の中で何ができるのかを、ちゃんと考えなきゃいけない。1年の中で、来年の留学中に何をするのかっていうのも考えたい。実務をやる中で見えてきた課題をデータ使って分析したり、留学の2年を復興のための間接的な一部として、つなげてやっていきたい。
最初は、プロジェクトリーダーの付き人っていうかアシスタントみたいな感じで動くと思うんですけど、その中で僕なりの価値とか出せるようになりたいなあって。活動支援金をもらうわけだし、もうボランティアじゃない。自分でちゃんと意識を切り替えて、プロとしてやっていけるように急がなきゃ、と。
-留学を延期して、1年間コミットしようと思った経緯を聞かせてください。
鈴木:1つはお金のこと。去年から奨学金をいくつか出願してたんですけど、どれも通らなくて。通りそうだったロータリーの奨学金も地震が起こって中止になっちゃったので、お金を借りて行くという形になった。親は「銀行で借りるとことを考えている」って言ってくれたし、友人や先輩は「貸すぞー、カンパするぞー」と言ってくださった。声かけてくださる人に甘えまくれば、お金が集まっちゃうし行けたんですけど、このお金で行っちゃ絶対ダメだな、というのがまず1つです。
-他にも、なにかある?
鈴木:あと、僕は学部生の頃から、団体のリーダーとかを、先生や先輩に頼まれたりする形でやってきて。今の僕の1番の課題なんですけど、好き嫌いとかがほとんどないんです。「一生かけてこれをやる」とか、「今これを喰らいついてでもやるぞ」っていうのがずっとなくて。ないなりに、なんとかなっちゃってた。
―へえ、なるほど。
鈴木:期待されて頼まれたら苦じゃないし、それに応えることにやりがいを見い出せてた。他者のニーズを受けとめた上で、自分がどうするかってのを、あまり形成しきれてなかった。それは今回ボランティアの始まりもそうだし。根本的な問題として、僕は常に対応者でしかなくて。勝負師になれていない。本当にもう、腹の底からの気迫でやってこれたことがない。なんかこう、「あまっちょろいなー」ってことを痛感したのが、この暫くです。
-現地で、なにかそう思うきっかけがあったのかな。
鈴木:木の屋の手伝いをさせてもらってるんですけど、社員さんたちは、うず高く積みあがった山から1個1個丁寧に、缶詰を拾うんです。旬のおいしい魚使って、いい商品をつくってる。中身は無事だけど、泥だらけでへこんでたりする缶詰を買ってくれるお客さんがいるっていうのは、これまで着実に信念持っていいものをつくり続けてるからだと思うんです。
先日、マルイの錦糸町店前で拾った缶詰を出張販売したところ、1日あたりの売り上げは、これまでで一番だったそうです。今僕は、木の屋という企業に惚れ込んでいまして、彼らの発信の手助けできないかなーと。
―木の屋さんに惚れ込んでいる理由は?
鈴木:缶詰そのものの味が、雄弁に語ってますよね。作業が終わった後に、社員さんがいくつか、くれるんです。「帰って夜に食いなよ」って。
―どんな缶詰なんだっけ?
鈴木:もう、缶詰の概念が変わりますよ。スーパーの100円とかの鯖缶とは違う。木の屋さんは、金華鯖ってむこうのブランド鯖の、一番油が乗ってる旬のものしか使わない。めーちゃめちゃ、うまいですよ。瓦礫の中から丁寧に拾って、売る。データ上は、42万個がまだ落ちていて、1個1個、思いがつまった缶詰なんだなあって、拾いながら感じる。
-社員さんと一緒に拾うの?
鈴木:よくしゃべる味のある面白い社員のおっちゃんがいて、どういう商品作ったかとか、津波が起こったときのこととか、雑学とか仕事の話も聞きながら拾ってます。こないだは僕の顔を覚えてくれて、「また来てくれたんですね」って言ってくれたんです。3回目行ったときには、留学延期を決めていたんで、「僕、もう1年お手伝いさせていただきます」って言ったら、「ありがとう」と。木の屋の若手の人と僕に、「これからは若い世代が日本を創っていくし、よろしくたのむぞ」って言ってくれた。「なんかこの1年で僕にできることをやらなきゃ」という気持ちにさせられた10日間でした。
7月は車の免許をとって、8月から石巻市に住むつもりです。僕は既に現地で活動している皆さんより出遅れている部分があるから、まずは現場のことをよく知らないと。その傍ら、いろいろ情報収集したりデータを集めたり、ホワイトカラー的な貢献もできたらなと思います。
-ホワイトカラー的な仕事が、やりたいことに近いのかな。
鈴木:うーん…まだわかんないですね。ただ今まで、巻きこまれながらも、人を巻きこむ力とか、ネットワーキング的な力とかはついてきたと思うので、活かせるなら活かしたい。あとは、物を書くことをずっとやってきたので、言葉を紡ぐことで役にたてればいいなと。アウトプットって、現場で何が起こっているか深く理解して、その対象を愛した上でないと薄っぺらい物となるので。焦らず、ちゃんと腹のそこから出た言葉で表現していきたい。ただでさえ僕は被災者ではなくて途中からやってきた人だから、知らないままに適当なことを絶対に言っちゃいけないなと思います。
-あと、これはもうちょっと話したいなみたいなこととかありますか?
鈴木:仕事っぷりを見てもらうしかないなと思います(笑)
-ぜひ、行かせていただきます(笑)。ありがとうございました。