リーダーがビジョンを語る
大きな余震を経験してから
先遣隊として被災直後に現地に入ったつなプロの稲葉さん。滞在されている登米市にある香林寺で、避難所をまわって見たこと感じたことを、前回に引き続き話していただいた。【つなプロ・稲葉隆久(2)】
稲葉:避難所とかに入ってもみんな知り合いを探していろんな所をまわっていらっしゃるんですよね。それで生徒の名前が赤線で消されていくんです。赤線で消されてない生徒もまだたくさんあるんですよね。
-その赤線で消されたというのは。
稲葉:もう安否確認とれましたっていう。
-つまり行方不明の人たちには、まだ線がひかれてない。
稲葉:そうですね、行方不明であったりとか、安否が単純に確認されてないだけの人が。先生たちも家に帰らずに泊り込みで、いろんな避難所をまわって探しまわってたりとか。そういう方たちとお会いして。一方でいろんなところで炊き出しもはじまりました。子供たちが胸に「ボランティア」っていうのを貼って受付とかしてたりするんですよ。じいちゃんばあちゃんも普通に談笑してたり。だからすごくこう、先遣隊の一週間っていうのは、気持ちの整理がつかなかったですね。どういう状態なのか、はじめは理解できなかった。
-食生活はどうでしたか。
稲葉:はじめはかなりきつかったですね。ごはんもこっちから持ってたやつがあったんですけど、ふりかけの量でけんかしたりとかしてたので(笑)。おまえかけすぎだろーって(笑)ふりかけが貴重だったんですよ。
-かけすぎた人はどういうつもりで?
稲葉:普通にかけちゃって。いやいやもうみんなわけあってるでしょー!って(笑)。コンビニもあいてなかったですし、スーパーもやっと途中からはじまって。
-それ石巻の話、仙台の話?
稲葉:仙台の話です。それでガソリン渋滞もすごいはげしくて。何キロも長蛇の列で。もちろん石巻のほうは全然そんな状況にもなっていなくて。店が開くどころか、まだまだそのときは瓦礫の山ですよ。市役所の前とかも瓦礫で通れなかったですし。
-それで3月17日から入って一週間。
稲葉:はい、一週間。
-そのあと一度東京に戻ってきたんですか。
稲葉:2日間だけ。
-東京に。
稲葉:東京に。2日間だけ戻ってきました。
-そのときってどうでしたか。また東京に戻ってきて。
稲葉:そうですね、なんか単純に温かいもの食べれるとか(笑)。人いっぱいいるとか。家に帰れた!ほっとできるーとか。なんかこう、あの状況を伝えなきゃとか、みんなにも「火」をつけなきゃ、ってことよりも生活できる!という気持ちの方が強かった気がします。おにぎりとか用意してくださって。めちゃめちゃうまかった。
-それでまた戻るわけですよね。それは前から決まってたんですか。
稲葉:はい。
-また宮城に向かうときは、どんな気持ちでしたか。
稲葉:あんまりはっきり覚えてないですけど、なんか気合入ってましたね。どうやって遂行していくかとか、そういうことばかり考えてた。
-2回目に宮城に行ってからは、どんな3週間だったんですか。
稲葉:ばたばたと過ぎていく時間でした。避難所の状況も日に日に変わっていくというか。最初の1カ月くらいは改善されるというよりは、あれが足りない、これが足りないという状況だったので。必要とされていることも日に日に変わっていくことを肌で感じて。あとは一緒に活動していく人もどんどんどんどん変わっていきました。あまり振り返ることもなく。
-没入している、そのときそのときに。
稲葉:そうですね。朝みんな起こして、まとめて送り出して、自分も出て行って、夕方帰ってきて、まとめて、振り返りをして、寝るーっていう感じなので。あんまり考える余裕はなかったかなって気がしますけどね。
-そういう日々の中で、印象に残っていることはありますか。
稲葉:そうですね。ひとつは4月8日に起きた大きい余震。
-ありましたね、もう1回停電になってしまって。
稲葉:この場所に100人くらいいたんですよ。そのときが一番人が多いときで。本当にちょっとずつですけど、そろそろ元に戻ろうとしているな、ってみんなが感じていたところの大きい余震だったので、結構な落胆がありましたね。「またか」って。
-夜でしたよね。
稲葉;そうですね。
-もう寝てましたか。
稲葉:僕らは寝てなかったですね。10時とか11時とかそんな感じですね。その日あった活動の振り返りをみんなでしていて。だいぶ疲れも溜まってきていて「疲れたねー」とか言っているところで。
稲葉:それで、ここ、地震の前に地鳴りが聞こえるんですよ。
-地鳴りが。
稲葉:ごぉーーーーー!って言うんですよ。僕らは緊急地震速報よりも先に地震来るのがわかるので。来た、来た、来た、来た、結構大きいよ。それで緊急地震速報も鳴って。来る、来る、来る、来る、って。で、どーーーーんって来て。結構大きいよ~とか言ってたんです。そしたら、ど、ど、ど、ど、どって。やばいやばいって。扉あけろーって。外に出て。で、停電になって。真っ暗になって。ここらへんもう本当真っ暗になっちゃうので。そのときもすごい寒かった。
稲葉:とりあえず班ごとに人数確認して。全員確認がとれて。いつまた余震がくるかわからないですし、津波警報出てるとかって話もあって。ちょっと危ないってなって。車に分乗しようってなって。それで何人かでここにある毛布を取りに来て。車の中に分配して。テントを建ててラジオをつけて。次また余震が起こって建物崩れても危ないので。先にもう生活物資を全部運び出してテントの中に入れて。「みんな車中泊するからね」って。「ゆっくり休もうね」って休ませて。で、2時半くらいだったと思うんですけど。避難警報解除されて。もう部屋に戻ろうってなって。
-うん。
稲葉:それで朝4時半くらいに起きて、ラジオつけて情報収集したんですよ。そしたら給水所が開いていると。もう水が止まっているからトイレにも行けなくて。僕らは水をもらうわけにいかないので、給水所に行って情報収集しに行こうかって。あとトイレ流せないので水汲みに行ったりして。その日自体は活動できないものだともちろん思ってて。
-そうですよね。
稲葉:でも仙台の方も揺れはしたんですけど、僕らと深刻さが全然違っていて。ギャップにまた驚いて。仙台にいるメンバーは「やるかやらないか検討する」みたいなことになって。で、登米にいる僕らとしては「全然やれるわけないでしょ!?」みたいな感じだったので。そんなに差があるんだって驚きました。石巻もかなり大変だったみたいですよ。なのでその状況の差にも単純にびびったし、意気消沈してしまったのもあるんですけど。ボランティアの中でも恐怖で固まっちゃったり、ちょっとまあ、戻しちゃったりした子とかも夜中出たので。
稲葉:今まで被災地をまわって、いろんな方の話を聞いて、大変な状況をわかったつもりではいたんですけど、自分たちも余震をうけて「本当にキツイ」ことが分かった。水がないとこんなに大変なんだとか、電気が消えるだけでこんなに不安になるんだ、パニックになっちゃうんだとか。しかも本震のときは、この比じゃなかっただろうなって。そういう状況の中に僕たちがやってきて、いきなり「話聞かせてください」とか言ったら、「そりゃ腹たつ人もいるな」ってのもすごいわかりましたね。「こんなきついときに話とかじゃないだろ」みたいな。ボランティアはみんなそうですけど、今までの僕らの活動とか、アセスメントの仕方とか、みんなすごく考え直したと思いますね。
-考え直した。
稲葉:そのあとみんなアセスメントに行ったとき、はっきり何を変えたってわけじゃないですけど、ちょっとアセスメントの観点が変わったりとか、コミュニケーションのとり方が変わったんじゃないかなとか。自分たちの聞きたいことを聴きに行くわけじゃなくて、まずはその方たちの状況に応じてコミュニケーションとる。その中で話を聞けたら聞いていく、ってスタンスにみんなかわってきたんじゃないですかね。
-なるほど。
稲葉:そんな簡単に調査できないってのはみんなわかってたことなんですけど。自分たちも余震を受けて変わったなって。気持ちがかわった。それにみんな恐怖心とか不安とかすごく感じながら活動したと思いますね。もしこの沿岸部で地震おきたらどうしようとか。
-あまりよくわからない先遣隊の時期があって。それで地震が起きて自分ごとになっている。
稲葉:完全に自分ごとになりましたね。あとはまあその、もちろん時期的にも一週間二週間たって、同じところ回ったりすると、顔おぼえてくる。あの人の生活はどうなったとか見えはじめたので、実感湧いたのもありました。
稲葉 隆久(つなプロ・県北エリアマネージャー/NPO I.P.P.O代表)
大学時代より、カタリバの活動に参加。07年からは理事となり経営にも従事(~2010.7)。延べ4000人のボランティアをマネジメントしながら、関東を中心に毎年約100校・2万人に及ぶ高校生達に「カタリ場」を展開。大学生同士&高校生と大学生のコミュニケーションの仕掛けづくりから、大学生や若手社会人のボランティアリーダー教育、キャリア支援のワークショップなど幅広く手がけている。米国CCE,lnc 認定 GCDFキャリアカウンセラー。
■関連インタビュー:たくさんの避難所をまわって見えてきたもの【つなプロ・稲葉隆久(1)】
■関連インタビュー:復旧とか復興とかじゃなくて創造。もう元には戻んない。【つなプロ・稲葉隆久(3)】