リーダーがビジョンを語る
一緒に歩く人を見つけるまで
震災が起きて一週間も経たないうちから、現地へ赴き、そこにいる人との対話から関係をつくり、支援を続けてきた友廣さん。現在、「つむぎや」として宮城県北の牡鹿半島にて活動を継続している。震災直後、宮城県全域を調査する「つなプロ」に参加してから、現在に至るまでどのような経緯があったのか。【地域の未利用資源活用とコミュニティ再生プロジェクト(つむぎや)・友廣裕一(1)】
Lyie Nitta
―まずは、地震の時の話から聞いても良いですか?
秋田市内で3月12日に講演の仕事をもらってたので、11日に前日入りしたんですよ。それで、大潟村で農家をはじめた後輩に市内を案内してもらって、休憩がてらお茶してたら地震が来て。
―地震は秋田でも大きかった?
はい。それで机の下に隠れておさまってから外出たら、地震の前は降ってなかったのに、結構吹雪になっていて、雷まで鳴り出した。
―次第に状況が分かってくる。
最初は全然分からなかったんで、取りあえず寒いから車で移動し始めました。それで、彼の家に着いたんですけど、秋田県内3日間くらいずっと停電だったんですよ。ラジオ聴きながら夜ご飯食べていたら、東北の沿岸部にすごい津波が来たらしい、と。気仙沼とか陸前高田とか、旅で周っていたところだったんで、それからもう気が気じゃなくて。
―ムラアカリで訪ねた人の顔が浮かぶよね。
すぐにみなさんの元へ飛んで行きたいなって思って。僕はわりと自由な働き方なので予定調整できるし、しばらくは大丈夫そうかなと思ったんです。数日後に、飛行機が飛びだしたのでまず東京に帰って来たんですよ。
―うん。
最低限、自分がどんな状況でも生きられる力があったらGOだったと思うんですけど… はじめての災害だったしその自信がなかった。秋田の大潟村にはめっちゃ米とかあったんで、それ持ってけないか相談したりとか色々考えていたら、15日の夕方くらいにETIC.の方から電話がかかってきて…
―どんな電話だったの?
「現場行きたくて、どうやって行こうか考えてます」って言ったら、「つなプロ」っていうプロジェクトで先遣隊として現場に行く人探してるって話で。
―稲葉さんとかと一緒のタイミングかな?
そうですね。明後日の朝6時に横浜集合できる?みたいな。全然時間無いけど、震災が起きてからずっと現地に入りたいと思って入り口を探していたので、そういう役割を与えてもらえるなら行くしかないなと思って即答しました。翌日、都内色んなとこ周って準備して。
7人乗りの車に7人といっぱいの荷物でいったんです。東北道、結構空いていたんですよ。災害支援車両しか通れなくなっていたんで。色んな自治体からの警察や消防車両が走ってただけで、一般車両全然走ってなくて。
―そのときどんな気分だった?
現地の状況分かんないんで、結構びびってましたよね。でも、みんな努めて明るく振舞っていました。
―まずはどこ向かったの?
仙台ですね。夜に着いたんですけど、街は意外と津波の被害がなくて、地震でもそれほど壊れたりしてない。けど、店が開いてなくて静かな感じでした。まずは東北Rokuプロジェクトの島田さんが震災翌日から宮城県内いろんな場所でゲリラで炊き出しやっていたので、まずは石巻に炊き出しの手伝いに行きました。
―初めて津波の被害見てどうでした?
壮絶でした。ガソリンスタンドに車が2キロくらい並んでいるんですよね。1日で入れなくて2日くらい並んでたりして。給水所にもタンク持った人が寒い中、並んでて。お店とか窓破られて人が入ってる所もあったし、自販機とかも全部壊されて中身もお金も全部取られてて。(危ないから)一人で行動するなとか結構色々言われていたんですよ。そんな中、最初予定してた小学校に行ったら、子供や校長先生とかが出て来て「私達はちょっと前に炊き出し来たから大丈夫だけど、隣の小学校は全然炊き出しとか来てなくて困っているから行ってあげて下さい」って真剣に言うんですよ。
最初に行った小学校で印象的だったのが、中の人と外の人って呼ばれる人たちがいました。
避難所の中に入れて体育館や教室に住んでいる人と、中で共同生活が出来ない人や、若者とかは避難所のスペースを譲る為に自分の車に住んでいるような意味合いもあったりするんですけど。物資で600人分食糧がありますって言っても中の人だけで600人越えてたり。だから、管理者である中の人とかが仕方なく、外の人には言わずに炊き出しを配っていたりして。
―無用な混乱を生まない為かもしれないし、別に悪意があるわけじゃないのかな。
一般的な情報としては管理者も中の人だから、自分たちを優遇しようとしてるって言う話もあるわけです。3日間くらい食糧が来なかった避難所とかあるし、来ても1日の食糧がチョコレート1かけとか、4つ100円みたいなクリームパンの1個を4人家族で分けたとか。そういう話はいろいろ聞きました。
1~2時間並んで待っていたのに途中で炊き出しの食べ物が終わっちゃって、もめごとになったとか。実際、避難所にいる正確な人数わかんないし、配るにも汁物とか600人分って言っても、本当に600杯分が出来るか分からないし。
―難しい。
でも、それを考えた上で学校の避難所なんかでは教室ごとにクラス制みたいな仕組みをとっているところが多くありました。クラス長の人に来てもらって、その人に一鍋分を渡して、教室で各班長さんらと等分してもらうっていうやり方でなんとかなったところもありました。
―そういうやり方も生まれたのですね。
ちゃんと自治の仕組みというか、管理体制が築けているか否かで避難所の生活の質に差が段々出てきて。
―物資に限らず運営の質によっても違う。
そうですね。ほとんどの人が初めての震災で、管理者の人たちも突然任命されてやっている。すごいカオスの中でどういう人がどれだけいるのかを把握しなきゃいけない。避難所管理のプロっていない訳ですよね。
でも、学校の先生とかに上手い人が多いなと思った。学校の仕組みは上手くピラミッド構造が出来ているので、そういうのがちゃんと築けてると朝と夕方のミーティング一回ずつ管理者が各フロアのリーダーみたいな人を集めれば、どこにどういうニーズがあるか分かっていたりしたんです。クラス長が各班長さんからあがってくる情報を集約して、それを各階や体育館などにいるフロアごとのリーダーが集めて管理者と情報共有を行う。すると管理者は細かいニーズや状況の変化も合わせて行政に報告できるわけです。
―どの辺りで活動していたの?
最初の週は宮城県南の山元町からずっと上がっていったんですよ。「つなプロ」として、ボランティアが毎週100人くらい全国から学生中心に来てくれて、各エリアに振り分けられて避難所を人海戦術でアセスメントしていたんです。
偶然ですけど、南からずっとアセスメントして塩釜とかも行きつつ2週間で仙台市内に。その後石巻市にたどり着いて、牡鹿・雄勝地区に入ったんです。
―時間と共に何か変化したことはありますか?
現地に入って最初のしばらくのことは記憶から消えているというか、自分の中で無意識的に開けないようにしている感じがするんです。当時もそれなりにすこやかに生きてたはずなんですけど… 状況も慣れてくるとは言え、やっぱ多少なりともストレスがかかってたんでしょうね。その頃の深いリアルな記憶ってロックがかかっているような感じなんですよ。
―最初に東京に戻ってきたのはいつだったの?
先遣隊が10日間くらいで終わって1回帰って来ました。それで数日いて、その後は…5週間くらいはいたのかな。僕あまり時間感覚がないんですよ。
―目の前の「今」に向き合う事が多くて、俯瞰する事があまりなかったのかな。
確かに。「つなプロ」でやるべきことは明確だったんですけど、途中からプレイヤーというよりマネジメントに徹するようになっていくんで、現場からはある意味遠くなっていって。
現場はまわってるんですけど、ヒアリングはボランティアの人達に任せて、特別なニーズが出てきた所とか、物資を届けたり次の支援が必要なとこに僕が動いていくような感じになるんです。
―プレイヤーからマネジメントに。
なんだかんだ言って、ボランティアに来てくれる人たちもストレスや色々抱えて帰ってきたりして。避難所では自分の辛い話とかを自然に話してくれる人が多くて、それを聞いても短期滞在の自分には何も出来ないって無力感みたいなの抱えて帰ってきて、わんわん泣いちゃったり。
―色んな境遇があるのだろうね。
元々、困っている人に対する共感性の高い人たちが来てたりするので。ボランティアのみんなが抱えてるものをちゃんと吐き出させてあげるとか、すこやかにちゃんと動けるように必要なことをしてあげるっていうフォローもエリアマネージャーとして重要な役割で。
―なるほど。友廣君って旅するように仕事しているし“プレイヤー”なイメージなんだけど、マネジメントはどうだった?
最近は、結構個人で動いていたけど、大学時代は60人くらいのサークルの代表とかやってて、みんながすこやかにエネルギーを出しためにはどういうことが必要かというのをずっとやっていたので、懐かしかったですね。
―どっちがあってるのだろうね。
どっち、ってこともないですけど。単純に「つなプロ」のときはある意味ですごい楽しかったですね。こんなこというと不謹慎かもしれませんが。あんなに色んな人と出逢って一つの目標に向かって一緒に全力で駆け抜けるみたいなのって懐かしかったし、やっぱりそういうの、好きだなって思いました。
―なるほど、シンプルじゃない。
そうですね。「つなプロ」としてやるべきことはやっているけど、この場に自分がほんとの意味で何をすべきなのかとか何が出来るのかって言うのがほんとに分かんなくて、もどかしかった。面的に避難所の状況把握するっていうのってすごいマクロな話じゃないですか。そういう風に見ると僕の中で無力感しか生まれてこないんですよね。あまりに大きくて、自分の力はまったく及ばないんじゃないかって気持ちになってしまって。
―無力感。マネージャーとしては効率的・効果的な策を打って行かなきゃいけない。
「つなプロ」のミッションは障害や持病持ってるとか、一般的な支援で十分じゃない人たちに特化した調査やケアをしていこうって言うのが明確でした。それはとても大事なことだと思ってたし貢献したいと思っていた。でも、ぶっちゃけよく分かんなかった。
―時間を経ても実感がなかったの?
そうですね。それで一旦「つなプロ」を抜けて自分で現地をいろいろまわったんです。自分になにができて、なにをすべきなんだろうって。無意識的にそういうことを探しに行ってたんだと思います。その頃に「トモノテ」をつくったんですよ。
―4月末の楽天開幕戦で木の屋石巻水産さんの缶詰売ったりしてたよね。
あの時は「つなプロ」抜けているときですね。木の屋っていう具体的な「顔」が一つ見えたりして、ペースを取り戻したんですよね。当時、結構印象的だったのは、牡鹿半島の蛤浜(はまぐりはま)ってとこが瓦礫の海ですごい被害だったんですよ。
津波で押し流された瓦礫の山の上を歩けるように畳が敷いてあって、奥にある公民館みたいところにみんな身を寄せて暮らしていたんですよ。2回目に行った時「上がってお茶でも飲んでけ」って言われて、畳の上歩いて行ったら、電気も水道もガスも無い中で沢の水引いてきたり、火をおこしたり、トイレやシャワーも自分達で作っていて、結構ちゃんと暮らしている。足りない物、結構あるんですけど、ちゃんと生活している感じでしたね。
―なるほど。
子供たちが瓦礫の中でキャアキャア言いながら遊んでいたのを見たときに、人の顔が結構見えて来たんですよね。
―人の顔が見えてきた。
そこの会長さんが、また漁業やりたいとか、色々な夢とか話すのを聞いていくうちに、僕がやるべきことは、こんな状況でも一歩踏み出そうとか夢に向かって走りたいっていう人がいれば、同じ方向を見て一緒に歩いて行く事なんやなと思って。それが自分の役割なんだと。
―うん。
なんか腑に落ちたんですよね。結局、蛤浜ではない浜といろいろ動くことになったのですが。皆を何とかしないといけないとかじゃなくて、僕はこうして前に進もうとする人たちを支えて、一緒に生きていけばいいって。それなら今までやってきた事とそんな変わんないんじゃないかって思ったんですよね。
聞き手:中村健太(みちのく仕事編集長)
■関連インタビュー:すこやかにいられる場づくり【地域の未利用資源活用とコミュニティ再生プロジェクト(つむぎや)・友廣裕一(2)】
■右腕募集情報:地域の未利用資源活用とコミュニティ再生プロジェクト(つむぎや)