リーダーがビジョンを語る
なつかしい未来の商店街をプロデュース
岩手県陸前高田市。津波により町の中心的な機能は、ほぼ全て破壊された。この厳しい状況の中から、壊滅的な被害を受けた商店主たちとともに、住民が豊かに暮らし続けられるための「商店街再生」のプロジェクトが立ち上がった(陸前高田未来商店街公式ブログ)。「コンテナ商店街」を通じて、商店街が持っていた昔ながらの役割を取り戻そうとしている、橋勝商店代表取締役の橋詰真司さんにお話を伺った。【陸前高田未来商店街プロジェクト・橋詰真司】
―震災前、どのようなご商売をされていたのですか。
創業は1940年。昭和46年ですね。私は2代目。食の問屋を営んでいます。会社は津波でだめになったので、自宅にコンテナを持ってきて仮設でやっています。今は、震災の影響でお付き合いのあったお客さんが震災前の3分の1になっちゃって。在庫管理は小さい倉庫でも間に合うのは間に合うけど、間に合わせているという状況です。中小企業基盤整備機構(以下、中小機構)の仮設店舗助成も申し込んでないので、本設でどかっと再開していこうという話にはしていますけど。小売店が元気になってもらわないと、我々の業務はなりたたない。地域の外にいけば販売はできるし、そっちもやって行こうと思うんですけど、地元の商店がなんとか立ち直っていかないと本当の復興にはならない。
―小売店の方々はどのような状況なのですか。
おばあちゃんがやっている地方の駄菓子屋さんとか、この機会にやめようという人たちは多い。立ち上がるのは難しいだろうなぁと思います。自分たちの年金でやってるっていうおばあちゃんたちが多かったから、そこは無理やり「やろう」と言える現状ではないので。実際、町がなくなっているじゃないですか。なので、小売店をはじめたとしても難しいですよね。でも3月31日からの一週間くらいは、開いている店が地域の小売店くらいで、地元の人たちは本当に助けられたと思うよ。本来の姿だよね。地域に小売店が一つでもあることが、地域を守る。物が売られているだけでなくて、いろんな情報を集合する場所になっている。どんな小さな小売店でも、あるのとないのとでは、地域が変わってくる。
―現在、けせん朝市実行委員長をされていらっしゃいますね。
高田には、200年続く朝市があって、その朝市をとめるわけにはいかない、続けようという思いで動き出しました。言いだしっぺなので、実行委員長になってしまった。中小機構の仮設店舗支援が、申請してから半年ぐらいはかかるということが5月時点でわかっていたので、だったらそこに頼らずに、自ら動こうと。半年間という期限付ではじめて、この場所が必要なくなることを前提にして。5月1日から始めて、毎週末やっています。震災前の朝市は5のつく日の月3回。なぜそうなのかはわからないですけどね(笑)。地元のおばちゃんがその日の朝に畑からとってきたものが並んでいたり。にぎわっていました。
―中小機構の動きとは別に動き出したわけですね。
中小機構に頼んでいる人たちは、お店の場所を自分たちで見つけないといけないから、ばらばらに建っちゃう。商店街にならない。震災直後はそれでよかっただろうが、コンビニもスーパーの仮設店舗が建って多くの人に利用されている今、とにかく動きが遅い。買う側も、仮設住宅で不自由している人たちが多い。車の乗りあいで行くとは思うが、あっち行ってこっち行ってではなくて、集約した形でやっていけたらなと思って。
―なるほど。
今はまず、朝市の場所が高台だったので、もっと下に行こうと。何より高田で集客できる場所はMAIYAさん(地元のスーパー)の付近か病院。その中で商業施設になりうる場所を借りて、女川のコンテナ商店街のようにつくっていこうと。コンテナについては、20台程度、寄贈してもらえる目処は立ってきている。
―なぜコンテナ商店街をやろうと思われたのですか。
コンテナというハードではなく、ソフトありきで考えたいなと。仮設に今いる人たちは、本当にいろんな部分でつらい気持ちだったり、いろんなことを思っている。商店街という場所は、ものを売る場ではなくコミュニケーションがとれる場所。昔の商店街は本来そういうもの。それが信頼関係なく崩れていってしまって、ディスカウントスーパーや大手スーパーに客足をそがれた。逆に、商店もこれまで他人や行政のせいにしていたけど、自分たちが経営環境を変えていかなきゃいけなかった。そうして初めて人が集まるんだろう。これからゼロから一を作って行くときに、昔の仕組みを取り戻して、お客様が朝から晩まで過ごす、お年寄りから子どもまでそういう場所にしていきたい。
―昔の商店街を取り戻したい?
私は商店街に活気があったころの世代なので、学校に行くときに声をかけられたり、知らないおじちゃんだけど自然と子どもたちが社会的な勉強をそこで学べる体験ができた気がするんですね。こうした取り組みは震災前からやろうとしていたことで、こういうチャンスだからこそ、やろうとしている。移動販売もいいんだけど、住民の人たちがちょっと家の庭からでるのではなく、足を運んで、そこでほんとうにね、ゆっくりしていってほしいなと。そこが一番ですね。売り手のほうも、一人では無理。みんなの力をあわせて商店街という組織の中で競い合う、成長し合うようなスタイルをとらないと、自立できなくなるのではないか。そんなことを考えています。
―商店街の人たちの思いはどうですか。
いろいろですねぇ。「この指とまれ」って集めるというよりは、シャッター通りの中でもがんばっていた方から声をかけている。そういう方たちと一緒にスタートして、そこに徐々に入ってもらうようにしないといけないなと思っていますね。13,14店舗くらいは一緒にやろうと決まっています。ただ、まだ見えなくて押しきれない部分もある。資金的にも、いろんな障害があって、中小機構よりもなんとか早くとは思っていますが。本来、商工会や行政がやることを我々民間が動いているイメージ。自分たちが土地を借入して。町づくりのために異業種の経営者たちで作ったコミュニティ・カンパニー(なつかしい未来創造株式会社)でお金を集めて、土地を借ります。そこに商店主さんから家賃を出してもらって商店街をつくっていく計画です。
―これからどういう手順で進めて行かれようとしているのですか?
コミュニティ・カンパニーに入っている長谷川(長谷川建設・代表取締役社長)と私で話をしているのは、資金を待たずに、先行して動いてしまおうと。ファンドとかの話もあるが、すぐにはでてこないだろうから、とりあえずできるところから動いてしまおうと。ハードが整ってはじめて我々が運営というかたちで商店街をやっていくんですが、商店街をやっていくうえでの目的は、一店舗一店舗の自立なんですね。その中で経営的な面、販売の方法、能力、ITのレベルアップを図っていく。運営として、企画というかイベントですよね。イベントも、仮設と繋いでいくイベントとか、地元に対するイベントをより多く発掘していかないといけないと思っています。外向きのイベントはいらないと。今回の商店街は本当にソフトな部分、あそこにいけば、という場所をつくりたい。このイベントの企画づくりを、外から来てくれる右腕の方と一緒に取り組みたいと思っています。
―ソフトの部分でやっていきたいことはたとえばどんなことがありますか?
たとえば、橋勝商店で扱うのは「食」なので、食文化の継承というテーマがある。今このへんの田舎、われわれ世代の人間って昔の味って知らないんだよね。一つ上の世代が地元の食べ方があるってわかっている。それが今、70,80のおばあちゃんたちがいなくなったら、なくなっちゃうと思うんですよ。食文化は土地で違うと思うし、お彼岸にはこういうものを食べるとか、その季節ごとの食文化がありますよね。
―おばあちゃんの料理教室とか?
いいですよね。子どもたちとおばあちゃんたちを繋ぐようなことをやっていきたいですよね。遊びでいえば、竹トンボだったり、おじいちゃんから孫の世代へ繋がる昔の遊び。やっぱりね、今回朝市で子どもイベントやったんですけど、おじいちゃんたちが子どもと触れ合うのはすごい楽しいみたい。我々がやらないといけないところだったんだけど、率先して紙飛行機に色塗ったりとか、おじいちゃんたちが率先してやってたもんね。お手伝いをおじいちゃんの世代に頼んだけど、子どもそっちのけで自分たちがそればっかりやっていて。それがすごい印象にあるなぁ。そういうものって必要だし。子どもたちも、親だったら反抗するけど、おじいちゃんたちっていうのには素直に謙虚に話をきくだろうし。そういう意味ではやはり、孫世代との交流というのを、やっていきたいねぇ。
―そういう出番をつくっていきたい思いがあるんですか?
みんな主役であってほしいんですよ。私は周りで支えてくれている人が多いから名前としてトップになっているだけで、自分だけがやっているわけではない。みんなが思っていることを代弁しているだけで。商店街の一店舗一店舗やお客さんが主役になってほしい。
―単に、「売ります」というマーケティングをやりたいだけではない、ということですね。
はい。お客さんがどういうことを必要としているか。来ないお客さんのニーズも大切。交通手段がない人もいるだろうし、MAIYAで足りるのかもしれないし、そういう声を織り込んでいきたい。いろんなところの商店街は朝市もそうですが、観光が主になっちゃってる。地元4割、観光6割。それでは、いろんな外部環境があったときに、4割しか残らない。やっぱり地元に愛され信用されるからこそ、そこに観光客が集まると言うイメージでやっていかなければ。
―地元に愛されることが大切だと。
実は、この辺りで売っている牡蠣は、一度東京に行って、(出荷されて)帰ってきた牡蠣なんだよね。気仙川っていうところのそばでつくっていた牡蠣は、実は築地で2番目くらいに高いんですよ。それを地元の人は知らない。大きな気仙川があって、そこから真水がはいっていくので、そのそばで作っている牡蠣がぷりぷり。ミルキーでね。でも、外でどんどん売っても地元の人たちが食べられなかったら、意味ないよね。震災前から、やっていたことだけど、こうした地元の資源を生かした新たな商品を、地域の中で回す策も考えていきたい。商業というものが動いた時にはじめて製造業者や生産者に繋がっていく。売れる場所がなければ生産者は増えて行かないだろうしね。とにかくやりたいこと、やらなければならないことが山ほどある。ソフトの部分を一緒に支えてくれる人に、高田に来てもらえればと思います。
―商店街の持つ機能を、コミュニティのつながりづくりや、地域文化の継承、地域の人々の出番づくり、そして製造業者や生産者との連携まで、様々な角度から再生しようとされているのですね。お話ありがとうございました。またお伺いします。
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