リーダーがビジョンを語る
「もともとの豊かさって何ですか」を気仙沼から問い直す
創業120年の老舗である、気仙沼市八日町のマルト齊藤茶舗。津波で二階部分まで浸水し、一度は全壊に近い状態でした。そして、仙台でアーティストとして活動していた息子の斉藤道有さんは、15年ぶりに気仙沼に戻った直後に震災に会いました。気仙沼高校の進路指導役を務めながら現在もアート活動を続けている道有さんにお話をお伺いしました。【マルト齊藤茶舗・齊藤道有】
―アーティストとして、どのようなお仕事をされているんですか。
「今ない仕事」や「10年後に名前のつく仕事」をイメージしているんですよ。今欠けていたり、もしくは10年後にはそういう仕事が認知されて社会的な役割にもなっていたり、という仕事。アーティストって、形がないものを何かの形に落とし込んで、皆さんに見えるものとか、触れられるものとか、もしくは体感できるものにしていく。具体的なものにしないかぎり、それがどう重要な役割かって分からないですよね。
―アーティストをはじめたのはいつからなんですか。
大学を卒業してからですね。僕はもともと教育大学で美術を専攻していて、教育の勉強をしなくてはいけないんですけれど、座学の勉強が好きじゃなくて。「あのとき面白かったなあ、突き詰めて勉強したなあ」とかいうものは、だいたい学校の外にあったんです。みんなが無意識に共有している空間だったり、公共とプライベートの曖昧な境界のような中間の領域だったりに興味があって。
―学校でも家でもない、たとえば縁側的な場所に興味の対象があったわけですね。
学校の帰り道だったり、ちゃんと名前のついていないような場所が、実は個人にも共同体にも重要なんじゃないかなと。そういうところにこそ、形式的に決まった人の関係からこぼれ落ちたり、隠しておきたいものや非常に孤独なものがごちゃごちゃにある。そこから、「これはおもしろいな」というものをとにかく探し出す作業をして、それを改めて並べ替えてみたりとか。経済を中心にした社会活動からは少しズレた、個人的な趣味や娯楽と片付けられてしまうかもしれないもののなかに、これまでの経済活動を超えた今後を支える価値が隠れているんじゃないかなとは思うんです。
―たとえばどういう形になるんでしょうね。
たとえば、ドアをあけるとすぐ車道になっていて車とぶつかってしまうような、誰も使えないテナント物件を友人のアーティストと借りたんですね。で、初めは芋煮会をやったんです。いろいろと知らない人にも声をかけて、初めての人同士が集まったからいつもと違うコミュニケーションをしようと、「挨拶をしたときに、相手の顔に落書きをしましょう!」って。くだらないけど、面白い。春先にはその場所で窓に映像作品を投影しながら、部屋を開放してコタツに知らない人同士をいれて、コミュニケーションの領域を広げていくプロジェクトを3年やっていました。
―面白いですね。気仙沼ではこうしていきたいというのは何かあるんですか。
震災後には7月から1つは気楽会という町づくりサークルと人を巡るツアー「気楽会の観光案内課」という、震災前後の気仙沼を、そして震災の経験を話しながら歩くツアーを始めました。もう1つは「MEETS」というワークショップのプロジェクトです。高校の写真部の子たちと、片付き始めたお茶屋で写真のワークショップを定期的におこなってます。偶然の出会いからお付き合いをはじめた写真家や画家、地域の人にゲストになってもらったりして。他にもキャリアアドバイザーの立場を利用して、気仙沼に縁があったり面白い仕事をしている人を高校に呼んで、トークとディスカッションを生徒に聞かせたりですね。
―縁があったものから派生して、自由にいろんなことをしていらっしゃるんですね。
ワークショップもプロジェクトも、「meets」という出会いそのものを一つのテーマにして、そこから表現活動などを実践していくというやり方です。
―そういう活動って、地震も一つのきっかけになっているのですか。
今はみんな「震災復興を機に」ってことになっていますけど、一回切り分けて考えたいなと思っています。僕は震災よりも前の気仙沼の状況を知っていて、もとから課題がたくさんあったし、震災以前の課題と震災以降の課題とは一度分けて捉えないと。近代化を進めてきたなかで失敗しちゃったところとか、日本にフィットしてきた「豊かさ」そのものを、改めて問い直していきたいなと思います。
―いろんなあり方が、地域ごとにあるでしょうね。
気仙沼は、水産業がやっぱり基幹産業なんですが、農業とはずいぶん違うんですよね。養殖はどちらかといえば少し農業に近いですが。ただ、基本的に博打のようなところがあるわけですよ。野生と格闘しながら捕ってくるわけですから。僕が小学校のときはとにかく景気が良くて、水産業も非常によかった。逆に今は、漁獲の規制や減船があり、後継者の問題があったり、景気や経済が低迷したりっていう問題が重なって、一気に衰退が進む。けれど、経済状況に引きずられるのではなく、田舎や中規模な地方都市であればもう少し違う基盤というか、失敗しても豊かに生きられるライフスタイルが、東京や大都市にはできないことが可能でしょう。
―地方都市だからこそできることもありそうです。
いっぱいあるんじゃないかな。けれど、逆のことを発想しちゃったんですよね。「自分たちの身の回りのものは、そんなに価値の上位にあるものじゃない」っていう感覚が。たとえばこっちの人って、仙台や都市部に出たときに、ファーストフードみたいなお土産を買ってくるとすごい喜ぶんです。チェーン店の目新しい食べ物をこっちに持ってくると、希少価値があるから皆ありがたがって。普段、刺身とかアワビとか食ってるわけですが、そういうものは当たり前にあるから、その豊かさをそんなに特別なものだと思わない。
―住んでいる方が気づかないことが、たくさんあるんでしょうね。
地方は、観光資源を中心に儲けているわけですが、裏を返せば今までは買い手の方に基準を置いて、「いいもの」を目指していた。そうじゃなくて、身の回りにあるものがどれくらい豊かなのかってことを見直して、それをきちんとお金にかえたり、学びにかえたりしていかないといけない。こんなに豊かな環境って、求めてもなかなか得られないですから。まず、価値基準を変えないといけないんですよね。
―価値基準を変える。
結局、今までと同じやり方、つまり中央が中心で、その基準にのっとって、新しいことを作っていってもどうしようもないので。こっちにはこっちの基準っていうか、「もともとの豊かさって何ですか」っていうゼロの部分、「うつわ」を作る。歴史的に東北は長い時間、ずいぶん壊されてきました。きちんと歴史を、身の回りのものを見直した上で、豊かさをもう一度考え直したい。ゼロを変えて一を生み出していかないと。
―外からあまり影響を受けない無垢の状況で、どういう価値基準だったのかっていうのが、実はすごい大切なものであると思います。アートってそういうことを突破していくんじゃないかな、と思いました。
僕が、表現活動のなかで、役割を見いだしたいのは、たとえば、ある一定の価値観で社会が大きくどちらかの方向に動いていくときに、できればそうじゃない方向にいて踏ん張りたい。可能性や価値観を担保しておきたいです。社会が萎縮してしまうだけにならないように。まず「一つじゃない」っていう基本的なことですけどね。
―同じような顔とか肌の色の人が多いから勘違いしやすいけれども、違いますよね。宮城県っていっても、石巻と気仙沼は異なるし、地域特性もあります。高校でキャリアアドバイザーとして働かれているとのことですが、いま地元の高校生の就職ってどうなんでしょうか。
震災以前と震災後の一年間で、震災後だけ状況が悪化したかどうか、って言われれば微妙ですね。震災以前から地域の経済がある程度疲弊していたり、非常に厳しかった。そういう中でもまだ、高校生って自分の夢や理想が、社会の中のどっかに最初からあるもんだと、幻想を抱いているというか。でも現実にそれは準備されていない。無駄を排して最短距離で答えに行き着きたいわけですから、頭は使っているけど、最初の一歩を踏み出すときに、「どうやったらいいのか」と迷い始める。まず、やってみるってことが大事なんですけど、始めから正解がどっかにあるって勘違いを学んでいることが多いです。
―さっきの話に通じますね。アーティストとして目指されているところも、キャリアアドバイザーとしても、やっぱり既存にないものを新しくつくる、という考えがある。
そうですね。就職希望だったり、定時制の子たちと面談をしたりするときにはじめにだいたい言うのは、サバイバルしないといけないということ。そのためには自分で身につけていかなきゃいけないものがある。ひとつは想像力、つまり社会の側でどんな人たちがどんな考え方でどんな活動をしているか、そういう側に立てる想像力を持ってほしい。「誰かが自分のために、私がやりたいことを作って準備してる」なんていうバカな話はないですからね。で、じゃあ何をやったらいいんだろうとなると思うんですけど、とりあえず生き抜けばいい。
―生き抜く。
そう。自分が今まで身につけたものと、身の回りにあって利用できるものを使う以外に基本的にないわけですよ。そしたら、必要なものは自分で考えて作るとか、どこかへ行って探し出してくる。そうやって、だんだん自分がこういうことができるとかやりたいとかが、具体性を帯びていく。だから行動しながら考えなきゃいけなくて、それはサバイバルです。
―今おっしゃったのはよく実感できるんですけど、そこに至るまでの大きな溝みたいなのものって、どうやったら超えられるんですかね。
まだ将来が決まってない子たちは、まず選択肢ありきだったりするんです。選択肢があって、「さあ考えましょう」と。僕も高校生のときは同じような感じだったと思うし、自分もいろんな経験をしてきて気づいたんですけど。自分が何を求めているのかを、自分の言葉や行動で表現していくことを基本にしたい。みんなすごく優等生で物わかりもいいけど、もうちょっと外向きでもいいのになって思います。
―今って、一個のミスが命取りみたいな余裕がない感じが社会にあるから、ちょっとビビってしまうのはあるでしょうね。
「いやあ、いま経済の状況は悪いけど、お前らは好きにやれ。大丈夫。食い扶持も稼げるし、やりたいこともやれる社会だよ」って大人が誰も言わない。「貧乏でも俺は楽しくて、すげー生き生きしてるよ」ってことを、ダメな部分も含めて恥ずかしげもなく、大人はもっと見せたらいいのにと思います。この気仙沼でも、たとえば昼間から酒を飲んでフラフラ歩いてる人って昔はいたけど今はいないでしょ。楽しそうでしたよ。でも今は立派なことを装わないと、なんかこう「こんな大変なときなのに何やってんだ」みたいに蔑まれるような社会になった。
―「自分がどう思うか」よりも、周りの目線とか価値観に合わせるという方に、大人も行っちゃうのでしょうね。では最後に、何か伝えたいことはありますか。
「3月11日からのヒカリ」というプロジェクトを、震災から1年後の次の3月11日にやります。気仙沼市在住の若者を中心に実行委員会を組織して、自分が代表としてやっていて。被災地域から、悼みと希望のひかりをということで、約6時間ほど気仙沼の内湾から3本のひかりの柱を立ち上げようと。現在スポンサーも探していますが、スポンサーが足りなくても借金してもやるつもりで、みんなで頑張っています。
―ぜひ、自分も行きたいです。またお伺いさせてください。
photo by 初沢亜利
※「3月11日からのヒカリ」は3月11日に行われました。写真はその様子です。
聞き手:中村健太(みちのく仕事編集長)/文:田村真菜(みちのく仕事編集部)