リーダーがビジョンを語る
東北で想いを形にする姿を、子どもに見せる
震災による住居倒壊率が東北で最も高く、甚大な被害を受けた町である女川町。ここ女川町で、今年の1月から女川復興連絡協議会戦略室に参画している小松洋介さん、30歳。昨年9月末にリクルートを退職し、出身地である東北の復興に長期的に関わり続けることを決めた小松さんに、そのきっかけを伺いました。【女川復興連絡協議会・リーダー・小松洋介(1)】
-なぜ、女川にいらしたんですか。
僕、出身が宮城県仙台市なんです。リクルートに入社してすぐ、宮城県沿岸部の松島から気仙沼までを担当、クライアントの方とすごく仲良くなって、異動してからも親しくお付き合いが続いていました。地震のあった3月11日当日は札幌で仕事をしていたんですが、津波の映像をテレビで目にして、涙が止まらなくて。
よく知っている地域が被害を受けている映像を見ていてもたってもいられず、宮城県に戻ってボランティアを始めましたが、やればやるほど、もっともっと深く関わりたいという気持ちになりました。がれき撤去や泥かきのような短期的な支援ももちろん必要だけれども、これから長期的な支援が必要になるはずだ、と思っていた矢先、知人から、被災地支援のプロジェクトを立ち上げるから、手伝ってみないか、という話がありました。
トレーラーハウスの宿泊施設をつくるという興味深いプロジェクトだったので、パートナーとして一緒にやりながら、自分としても被災地の人たちが本当に何に困っているかというニーズを、ちゃんと知りたいと思って。そこで、プロジェクトの企画書を持って被災地のあちらこちらを廻って説明しながら、具体的にどんなことに困っているかを聞いてまわろうと決めました。決めたら、このまま会社にいたんじゃだめだなと思って、辞めよう、と。それが2011年9月末のことです。
-辞めるときは、迷いなく決断なさったのですか。
いえ…迷いましたね。残って今の仕事を続ける選択肢もありました。リクルートの文化として、前向きな辞め方は応援してくれるので、上司とはかなり話し合いをしました。「お前は、家族・自分のチームメンバー(当時はチームリーダーだったそうです)・友人。そういった人達に対して、自分がどういう人間で在りたいのか?というのを死ぬ気で考えろ。」と言われて。色々と考えて書いて提出して、それじゃだめだ、甘い、とガンガン言われて。週1回・壁打ちという時間をとってもらって、僕はこう思います、と話すのに対して、なんで?と聞かれる、というやりとりを繰り返したり、自分の幼い頃から今日までの年表をつくってハイポイントを探し、どんな瞬間に生き生きしていたのかを振り返ったり、ということをやりました。で、色々考えた結果、辞めて復興に関わりたい、と。
-すてきな上司の方ですね。
本当にありがたかったですね。また、休みの日には、全国あちこちにいるリクルートOBのところにも出かけていきました。30人くらいは会いましたね。聞くと、辞める時は勢いと、最後はノリだと。そういう人たちにも、随分背中を押されました。
とはいえ、僕は結婚して子どももいるので、嫁さんからすると、辞めるなんて…というのは当然ありました。もし経済的に立ち行かなくなったら、ちゃんと会社の面接を受けるから、少しだけ時間をもらえないかと頼み込んで。半年やって、形にならなかったら諦めますと約束して、そんなに言うなら、まずは半年やってみたら、と許してもらいました。
-もう、半年は過ぎましたね(笑)。
ものになったとは思ってないですし、正直、今の家庭の経済基盤を支えてくれているのは妻なので、えらそうなことは何も言えないのですが。走り続けた結果、色々と進んで形になりつつあるので、もうちょっとやってみたらいいんじゃないか、と言ってもらいました。
-それは良かったです。決断なさる際に、一番迷った理由と、それを振りきれたのはなぜなのでしょう。
迷ったのは、やっぱり、家族ですね。昨年9月当時は子どもが5歳で、1年半後に小学生だと考えると、ここで父親が会社を辞めて不安定な仕事に飛び込む、なんてことをやっていいのかと。そこが一番大きかったですね。
振りきれたのは、ノリと勢いですけど(笑)、これは絶対に必要なことだ、と思えたんですよね。やる必要がある、やるべきだし、それを進めようと一緒にできそうな人たちもいたのでやるしかない、と。
あと、会ったリクルートOBの一人が話してくれたことが、心に残っていて。ご自身が辞める時、“このまま会社に残って、マネージャーとしての背中を子どもに見せ続けるのと、とにかく自分の思っていることを本気になって汗かいて形を創っていく姿を見せていくこと、どちらの姿を子どもに感じてほしいか?と考えた時に、僕は後者だった”、と言われたんですよね。それにすごく共感して。僕も、まずは自分が思ったことをやる、というのを半年だけでも本気でやって、それを形にする姿を子どもに見せたいな、と思って。
-そして、トレーラーハウスの宿泊施設の企画書を持って、東北各地を回るわけですね。ニーズのヒアリングを並行してなさる中で、「これは解決しなくちゃならない」と共感したニーズや印象深いニーズはありますか。
トレーラーハウスの企画を話すと、宿泊施設はやはり、どこもニーズがありました。でも、規模が大きいので、本気でやらないと簡単に調達できる金額じゃないんですね。国や町に話をしても必要だよね、となるものの具体的に進まない、というところがほとんどでした。また、商店街や店を復活させたものの、物が売れない。あるいは、今はまだいいが、いずれ売れなくなるんじゃないかという不安もよく聞きました。
あとは、高齢の事業者が多いので、今さら新しく借金を背負ってまで、お店を再開するにはハードルが高い。自分は二代目・三代目で立ち上げ経験がないので、どうやって再建すればいいかわからない、という声は、かなり印象的でしたね。
そんな話を聞く中で自然に、宿泊施設があれば、滞在する人が増えて町の経済がまわる。高齢の人もお店をつくって経済をまわし、税収が増え、町が存続していくサイクルにするために、地元の事業者を助けるのは必要だよな、と考えていました。
-まさに、今の女川でのお仕事につながってきますね。女川に出会ったのはいつ頃ですか。
11月に女川に入り、商工会の方が、トレーラーハウスの宿泊施設について話を聞きたいと言ってくれました。その流れで、今一緒に仕事をしている女川町復興連絡協議会・戦略室長の黄川田に会いました。会ってすぐに、民間による復興計画を町に提出するための書類作成をちょっと手伝ってみないかと言われ、少しお手伝いしたところ、もっと一緒にやらないかと誘われて。
いろんな町に関わりたいという思いもあったんですけど、宮城の中で一番不利な状況にあるのが女川だと思ったんですね。原発のリスクだったり、町の8割以上が被害を受けていたり、近隣に比べて義援金の集まり方に乖離があったり。
他に外から入っている人や団体も少ないように思ったので、僕を必要としていただけるなら、ということで、2012年1月に女川町復興連絡協議会・戦略室に参画しました。
-協議会で黄川田さんとの仕事を一緒になさってみての印象はどうですか。
黄川田は、話の背景を省いて、結論をバババ!と伝えるので、最初は何のことを言っているのか、全然わかんなかったですね(笑)。それは、どういうことですか?とか、よく質問しました。
とにかく、スピードの速い人ですよ。まちづくりの過程で、参考になりそうな事例があると見つけると、たとえ遠方でも身銭を切って、ぱっと見にいくんですね。あるいは、この件は国、この件は県に話したほうがいい、という判断を即座にして、直接出かけていっちゃう。現地主義・現場主義が徹底していて、新しいことを創る発想力もすごい。そして、それを具現化するスピードが、何より早いんです。
黄川田と一緒に仕事することで、僕の仕事の取り組むスピードが上がっていくだろう、という手応えがあって、僕も勉強させてもらっています。
最初に誘ってもらった時、“俺は60過ぎているから、これからはない。俺が持っている過去・未来の人脈やノウハウ、全部の知見をお前にやる。給料も多少だが、引っ張ってくる。全部、お前の実績でやっていいから、俺と一緒にやらないか”、と言ってもらったのが印象的で。男気を感じましたよね。
-聞いているだけでも、ぐっときます。そこまで言ってくださったのは、なぜだと思っていますか。
なんでなんですかねぇ…。僕は、やるなら本気ですよ、という話をしたんですよ。会社も辞めちゃってるし、命懸けてやってるし、という覚悟感を見てくれたのかなと思いますね。ちょっと手伝いをさせてもらった時の僕の仕事のやり方やスキルを、使えるよ、とも言っていただきました。
聞き手・文:辰巳真理子(ETIC.スタッフ)
続編はこちら:(2)「主役は住民」女川町の産業復興を支える黒子
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