リーダーがビジョンを語る
被災地から、未来の地域医療のモデルをつくる
日本プライマリ・ケア連合学会東日本大震災支援プロジェクトのコーディネーターとしていち早く被災地に入り、医療者チームを組織・派遣する活動を始めた林健太郎さん。避難所や仮設住宅での医療環境の改善に取り組んできた。2011年10月には「地域の医療を守る会」を発足し、経済循環性のある事業の構築に挑戦している。被災地における地域医療の現状や新しい事業について、林さんにお話を伺った。【東北復興ポジティブエイジングプロジェクト・林健太郎】
―林さんが被災地に入られたきっかけはどういったものだったのでしょうか。
もともと国境なき医師団で活動をしていまして、ミャンマーでマラリア予防法の研究や実践を行っていました。移民労働者が天然ゴム農園で働くことによってマラリアに大量にかかっていたのです。ところがミャンマーでの活動中に私がチフスにかかってしまい、日本に帰国、入院することになりました。それが2011年2月のことです。ようやく退院できたと思ったところに、あの大地震です。海外にいたはずの恩師も帰日、「被災地に行ってこい」と言われたんです。
―それがPCAT(日本プライマリ・ケア連合学会)の活動に携わるきっかけだったのですね。
はい。PCATのヒューマンリソースやコネクションを活かして被災地での支援を行いたい。ひいては、先頭を切って動く人間が必要であると。そこで私にお声がかかったというわけです。人を集め、お金を集め、プロジェクトを作る。幸い、優秀な医療者が集まってくれたので、情報もうまく回っていき、プロジェクトをうまく作ることができました
―被災地での活動はいつ頃から始められたのですか。
3月20日です。まず気仙沼に入りました。それから石巻へ。被災した地域に入っていって何が必要なのか、避難所の中でも一人一人に聞いたりして、避難所医療や地域医療がどういった状態になっているのかをまず見ることが必要でした。たとえば気仙沼では在宅被災者に対するケアが不十分でしたからそうしたサービスを支援しようという動きになりましたし、石巻では心身障碍者や子どもと言った弱い立場の人々のための避難所を作らせたり、120人規模の要介護者の福祉避難所に医療者派遣を行ったりと、そうした活動をしていました。
―そういった活動はいつぐらいまで続けられたのでしょうか。
10月頃までですね。8、9月くらいに避難所が閉じるということもありましたので。そして、その頃からボランティアではなく、事業として成り立つ形での活動を目指すようになりました。そうしないと、これから先が続かないと思ったのです。経済循環性をもった活動にしなければと考え、「地域の医療を守る会」という会を新しく作りました。PCATはあくまで学術団体ですので、経済活動を伴うようなこと、経済循環のあるシステムを作るというようなことをやるのが難しかったのです。
―地域の医療を守る会では、どのような活動をされているのですか。
10月から、PCATで気仙沼市立本吉病院に医師や後期研修医を派遣しているのですが、その本吉病院の職場環境・病院環境作りです。10月になっても支援物資で作った棚等で医療品管理をしていたり、段ボールでできた靴箱を使用していたりしました。こうした環境は医療のプロとして接せねばならないのに、自分たちの病院も被災しているといった気分を作ってしまいます。こうした職場環境の整備が一つ。またいくら被災した病院でも10月からは保険診療で動いているので、しっかりとしたVisionをもって経営して行かなければなりません。そうした経営に関する資料作り。また本吉地域は、訪問診療が必要な患者さんがたくさんいる地域なんです。浸水のためエレベーターが使えない本吉病院を再開するにあたり訪問診療・看護を行うことになったのですが、17名いる看護師のうち、誰も訪問診療・看護の経験がないんです。そこで、研修医を派遣するだけでなく、訪問看護についての研修を行ったりすることで看護師の不安やストレスを取り除こうとしています。そうやって状況を一つ一つ改善するお手伝いをしています。
―今後は、どのような取り組みをされていくのでしょう。
後期研修医の派遣というのはPCATの事業なので地域の医療を守る会としては、医師・看護師の交換留学事業やデイサービスを使ったリハビリ事業をやっていこうと考えています。デイサービスを使ったリハビリというのは、たとえば、入浴と食事を省いたスポーツジムのようなリハビリです。都市部では少しずつ増えています。それをこちらでも行いたい。患者さんの集まる場所には看護師だけを置いて、遠隔で理学療法士が患者さんの画像や動きを見ながら、トレーニングの指示を出すという形です。コストも抑えられ、診療報酬点数にもなりますから、これをモデル事業として展開するといったことを考えています。
―事業の立ち上げだけでなく、経営も行っていくということでしょうか。
たとえば、これは広島大学成人看護学教室のノウハウを使って行っているのですが、山元町では仮設住宅や集合住宅にお住まいの要介護者や、慢性疾患を持っている方に対して、BlueTooth回線でデータを飛ばせる万歩計や血圧計等の医療機器を使ってもらっています。そのデータが全部コンピュータに飛んで来るわけです。例えば数日間、血圧計のデータが来なければ、「どうしましたか?」と電話をしたり、訪問したりします。こういった事業にかかるイニシャルコストや人件費を管理しなければなりません。これは先ほど言ったリハビリ事業もそうですが、経営の視点が必要になってきますね。事業立ち上げするお金も取ってこなければなりません。その上で事業として利益を出して継続させていくことができる人が必要です。
―それは医療関係者でないと務まらないとお考えですか。
いえ、むしろ医療関係者ではないほうがいいです。医療的な面は私が見ますので、経営を純粋に考えてもらいたいですね。経営の数字を見たり、また必要なデータを取りに行ったり。たとえばコンサル業界に興味を持っている人など適性があれば学生でも務まると思います。特に本吉病院のほうは日本の病院の保険システムとか、病院経営の戦略の立て方なんかを学べると思います。それから、高齢者のリハビリ事業では園芸療法等も取り入れたいと考えていますが、現行の法律では保険診療になりにくいんですね。そこで規制緩和を促すべく動いていく予定ですので、法律を読みこなせるような人も歓迎です。
―どんな方に、右腕として来てほしいですか。
やはり、思いがある人に来てほしいですね。思いというのは、一つには、一緒に作っていこうという思い、協調性というか。それは私たちと一緒にというのもそうですし、地元の人たちと一緒に作っていくという意味でもあります。
それから、新しいものを作っていくぞと、自分たちが関わるものが新しいモデルになるんだという、そういう思い。その2つが大切ですね。
―林さんご自身は、被災地での活動に携わってこられて、今どんな思いをお持ちでしょうか。
今すぐ思い浮かぶのは、まずレコードしなくてはという思いです。今までやってきた行為を記録しないといけない。次にまた大規模な災害が起きたときのために、今回の反省点をアーカイブ化していかなければなりません。これは国の研究費等も使って、国のメッセージとして残していきたい。国策として今後考えていくためのものを作りたいですね。
それから、高度高齢化社会の中で、これだけ大規模な災害というのは世界でも初めてのものです。教訓として世界に発信していかなくてはならないという気持ちもあります。ですので、今までの活動をまとめたいという気持ちですね。それともう一つは、ここから新しいものを作りあげていきたい、チャレンジとして。
―被災地から発信される新しい医療の取り組みに期待しています。ありがとうございました。
聞き手:山内幸治(ETIC.スタッフ)/文:鈴木賢彦(ボランティアライター)