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特集記事 自分が一番使ってもらえる環境ってなんだろう(1)

リーダーがビジョンを語る5713viewsshares2013.04.20

自分が一番使ってもらえる環境ってなんだろう(1)

一般社団法人Bridge for Fukushima(ブリッジ・フォー・フクシマ)を立ち上げ、福島でコミュニティビジネスの中間支援・子育て支援のネットワークづくりを行う伴場さん。復興に関わり続けて1年半が経ち、これまでの活動が面白い化学変化を起こし始めたとおっしゃいます。この活動にいたるまでの歩みをお伺いしました。【一般社団法人Bridge for Fukushima・伴場賢一(1)】

 

 

―どうしてこの活動をはじめたのですか。

 

僕は高校の頃から自分のやりたいことが明確にあったように思います。大学卒業して一度は銀行に入ったんですけど、自分のやりたいことと銀行の仕事にはちょっと違和感があったんですね。でもそのまま何をしたらいいかわからないまま銀行で6年間を過ごしました。
それがある日、本を読んでいたら、銀行で得た融資の知識を活かして海外で貧しい人たちにお金を貸して彼らの生活に何らかの変化が生まれるんだということを知るわけですよ。そうするとわくわくして止まらなくなっちゃって、「銀行員やめた!」とNGOに入ってしまいました。それから僕の生活ががらりと変わるんです。

 

僕は英語も全然しゃべれなかったし、開発援助ということもまったくわからなかったんですけど、たまたま入ったそのNGOで本当にすごくいい勉強をさせてもらったんですね。最初は日本にいて、その後カンボジアとザンビアで駐在代表を経験しました。やりたかったマイクロファイナンスや、ヘルスエコノミクスをその中でやらせていただきました。それから、そのNGOで5年が終わったときに縁あって国連に入ることができて、それでもう一回どうしようかと考えて35歳で大学院に行き、日本のJICAで仕事をさせていただいていたら今回の震災が起こったというわけです。

 

海外にいる間に、たとえばソーシャルベンチャー、いわゆる社会的起業とか、コミュニティ開発の分野の仕事をやっていました。しかし日本ではどうなっているのかって逆に全然知らなかったのですごく興味を持っていて、たまたま知り合った方たちから日本でもそういうことをやっている人たちがいるとの話しを聞いていて事前にネットワークがありました。

 

―震災の日はどちらにいらしたのですか。

 

震災の日にはエチオピアにいたんです。これもなにかのいたずらなんでしょうね。ちょうど仕事は3.11に終わり翌日の3月12日に帰国することが決まってたんですよ。最初は福島はこんなに被害が大きいとは思ってなかったのでとにかく宮城に入んなきゃいけないと思って、以前所属していたNGOに連絡して12日のフライトだから13日に日本に着いて、14日からはコーディネータでも炊き出しでもなんでもやりますよと伝えていたんです。先方からもたぶん石巻か気仙沼に入ってもらうことになるからってお返事をいただいていて。

 

―そうなんですね。

 

それが11日のことです。それでエチオピアからフランクフルトに移動したら福島はもっと大変だという状況がわかって、日本行きの飛行機も12時間くらい遅れてなんとか東京に着き、その日のうちにたまたま一席だけ空いていた飛行機に乗って福島に帰ってきました。

 

それで何をやろうかなって思ったときに、さっきお話したネットワークがきっかけになって電話があったんです。話を聞いてみたら、日本財団さんに20トントラックがあるんですけど、福島で受ける団体さんがいないので受けてくれませんかという内容でした。
それこそ、そのときの福島は水もマスクも全然なかった時だったんですけど、それでも受けてもらえませんかという話だったから、「あ、じゃあそれやります」という具合に震災後の活動が始まりました。それが福島での活動のきっかけですね。

 

―なるほど。まずは最も必要とされていることを、必要とされている地域で始めようとしたんですね。

 

海外で緊急支援のこともやっていたので、まずは水、衣食住は絶対ですよね。まずは届いたものを受けてはそれをいろんな団体さんにつなぐということをやっていました。それから海外で同じような仕事をやっている友達が日本に帰ってきて福島に来てくれてたんですよ。4月くらいなんですけど。

 

―1か月くらいたってからですね。

 

そうですね。その頃には石巻とか気仙沼はもうボランティアでいっぱいだったんですね。

 

―確かに。

 

 

でも福島にボランティアって全然来てなかったんですよ。それはやっぱり原発の影響でもあり、受け入れ体制も出来ていなかったこともあり。その原発に対してのケアがまったくできていなかった。どう考えても被害一番ひどいのは福島じゃないですか。それで来てくれた友達とブレストをしていて、それが問題であれば自分たちでボランティアツアーやっちゃえばいいじゃん!との話になって、そこからやっぱり団体にした方がいいよね。じゃあやろうかみたいな形で話が進んでいきました。そこで自分が考えていたのは、自分が一番使ってもらえる環境ってなんだろうということです。

 

―自分が活きるというような感じでしょうか。

 

震災に対して私の持っている知識と経験がどこで一番活かしてもらえるんだろうっていう風に思ったときに、団体さんに入るより自分たちでやっちゃった方がいいなという判断をつけました。それで友人2人が理事に入ってくれて、一般社団法人化しました。

 

―どのような活動をされるのですか。

 

復興の仕事のプロセスには緊急救援フェーズがあって、復興のフェーズがあって、さらにその先に、定着するフェーズというものがあると思うんですよね。昔の生活は当然取り戻せないんだけど新しい生活がちゃんと定着するまでのフェーズがあって、今は緊急救援から復興に移行するフェーズぐらいだと思っています。僕が一番得意なのはここから復興にかけてのフェーズ。

 

―これからなんですね。

 

おそらく僕が一番活かしてもらえるフェーズだと思います。去年は以前からのエチオピアでの仕事にも行っていたんですけど、これからの一年は僕のフェーズだと思っているのでできるだけ日本にいたいなと思っています。

 

―やっぱりフェーズって変わっていきますよね。変わることで生まれるギャップも多いんじゃないかなと思います。その意味でこれから必要な人はどういう人になるのでしょうか。

 

これからじゃなくてもずっと必要な人って現地で長く付き合ってくれる人なんですよね。何をやるにしても圧倒的に復興に関わる人って少ないんですよ。NPOに関わる人も、社会的企業に関わる人も少なくって。

 

―長くやってくれる人。どれくらいの長さですか。

 

やっぱり1年ではないと思うんですよ。5年10年くらいのスパンで。ただ、その中には当然生活ってありますし、たとえば給与や家族っていうこともあるので、すごく限られてしまう可能性はあるんですけども。でも短期的な緊急支援のフェーズではとにかくいろんな人が来ていろんなことをやっていていいと思うんだけど、これから本当に復興ということで考えると、やっぱりこの福島の目線で話をするということがすごく重要になってくると思うんですよね。

 

―福島の目線。

 

福島の目線。僕は途上国で仕事をさせてもらってたときは常に援助する側でした。それで現地に行ってたんだけど、本当に僕は現地の人の目線だったのかすごく反省してるんですね、実は。

 

―そうなんですか。

 

うん。すっごく反省してます。押しつけではなかったかとか。やっぱりこっちはある程度知識とか情報を持って行ってるじゃないですか。たぶん正しい答えを持っていっちゃっているんですよね。たとえばなんですけど途上国で現地の人向けにワークショップをやると、「伴場、今日は昼飯何がでるんだ」みたいな話をされるんですね。そうすると、言っちゃいけないとわかっていても、わざわざ日本から来て君たちのためにやってんのになんで昼飯出さないといけないんだみたいなことをつい思ってしまうんです。

 

でも彼女たちとしては2000人いる村の中で私たちばっかり他の村人のため、村全体のためにこれだけもう働いてるんだからという気持ちがあるんです。それはある意味で正解だと思うじゃないですか。僕はそこにたぶん違いがあって、相手の側に立っていなかった。でも今はそれができる人間になったと思うんですよね。本当に復興ということを考えたら、やっぱりこっち側の目線というものがある程度わかる人間にやってもらった方が進むというのがあるんじゃないかと思います。

 

―必要なことなんですね。それは物理的な環境をまずここに置くっていうのもあるでしょうし、それ以外にも。

 

心をここに置くみたいなこともあるだろうし。本当に福島のことを第一番に考えてくださっている東京の方も間違いなくいるとは思います。でも、やっぱりここにいて、たとえばにおいだったりとか雰囲気で感じるものとかってありませんか。

 

―あると思います。言葉にできない部分。僕は今インタビューして、それを言葉にして伝えようとはしていますけど、ここからこぼれるものなんていくらでもありますよ。においもそうだし、たとえばこうやって会話してても表情とかふるまいとかはなかなか文字にはできないですから。

 

たぶんそれは積み重ねなんじゃないかと。100%というのは難しくても、それを目指すという姿勢が少なくともなくてはいけないんじゃないかということなんです。ただ、100%同化はしなくてもいいんだと思っています。(右腕で参画している)加藤君のスタンスとかはすごく正しくって、いい意味で外から来た人間なんですね。彼が持ってくる新しい感覚って必要なんですよ。でも中からの、福島の人からの気持ちも両方わからないといけない。そういう仲間が欲しいと思っています。

 

インタビュー後編はこちら: 5年後、10年後にちゃんとつながっていく仕事

 

■Bridge for Fukushima HP: http://bridgeforfukushima.org

 

聞き手:中村健太(みちのく仕事編集長)/文:坂口雄人(ボランティアライター)

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