リーダーがビジョンを語る
「希望の缶詰」から始まる夢と希望の水産業
「木の屋さんの缶詰を食べたら、もう他の缶詰は食べられない。」
そんな評判の缶詰を世に送り出してきた木の屋石巻水産。津波で流され泥だらけになった缶詰を震災直後から社員、ボランティア一丸となって拾い、洗っては「希望の缶詰」として世に送り出してきた。その裏には、どのようなきっかけ、想いがあったのか。木村優哉さんにお話を伺った。【木の屋石巻水産・木村優哉】 ※2011年7月のインタビューです。
―地震から3カ月経ってみて、いかがですか。
やっと缶詰拾いのゴールが見えてきたので、あと1カ月もすると次のステップに行けるかなぁというところですね。
―1カ月後は、また次のフェーズになるのですか?
そうですね。今は他県の缶詰工場さんにご協力をいただいて、元々あったうちの鯨の缶詰を製造していただいて販売しようとしています。今までは応援してくださった方々へ津波で被害を受けた缶詰をお届けさせていただいていましたが、やはりこれまで通り、自信を持って缶詰を売っていきたい、と思います。
―社員は何人くらいいらっしゃるんですか?
今は40名です、もともと55名くらい。
―みなさん、この辺に住んでいらっしゃる?
はい。会社周辺と蛇田地区に住んでいる人が多いですね。
―木村さんは、石巻ご出身なのですか?
そうです。海から2.5キロくらい離れた場所に実家がありまして、そこで18歳まで過ごし、大学から東京へ行き、卒業後1年半働いたんですけど、やっぱり地元に帰ってきたくなって2008年の8月に帰ってきました。
―それで3年前に帰られて、家業を手伝うことになった。
すぐ会社に入ったのではなくて、まず経理の勉強をしなさいということで、弊社がお世話になっている会計事務所さんで1年間修業させて頂いて、2009年の9月に入社しました。
―それから主にどんな仕事をされてらっしゃったんですか?
まずは勉強していた経理の仕事からスタートしました。でも実際なんでもやりました、工場も入りましたし、あと毎朝市場も行ってました。
―市場で魚買うのですか?
僕はまだ買えませんけど、買い付け人に付いて、その姿を見て学んでいました。
―見て覚える、という世界なんですね。
みなさん、そうだと思います。見て覚えてやってみて、失敗して、反省して、そして覚えていくものだと思います。だんだん仕事の内容もわかってきて、これから面白くなってくるかなと思っていました。そんな中、地震が起きたので…。まだ会社に入って1年半しか経っていないのに…
―地震が起きたときは、何をされていたんですか?
港の近くにある会社の事務所の2階にいました。いつも通り仕事をしていたら地震がおきました。揺れが1分以上止まらなかったです。揺れがひどくなっていくにつれ、工場のことが気になったので、揺れがおさまってすぐ、外に出て工場に向かいました。そしたら水道管が破裂したのか工場からバーっと水が噴き出ていて。これはただ事じゃないなと思い、まわりの人も「津波が来るから、とにかく逃げろ!」と言っていました。
―やっぱり津波が来ると思った?
正直思っていませんでした。でも周りの人がみんな「津波来るぞー」って言っていたので。来るにしてもまさかこんなに大きな津波が来るとは夢にも思わなかったです。最後まで残って「戸締りした方がいいな」とか「泥棒入ったらまずいな」という思いがあったので、戸締りを全部して、最後の最後で鍵をかけて逃げた感じですね。
―どれくらいして津波が来たんですか?
石巻は地震からだいたい1時間くらい後だったんです。2時46分地震が起きて、3時40分くらいにこっちまで。
―1時間あった。
市内の学校に取り付けられている時計も3時50分くらいで止まってるんですよ。そのくらいは時間があったんですけど、多分僕に関しては残り30分くらいで動き出したと思うんですよね。
―それで、そのあとは…?
まずは祖母が気になって、会社から車で5分ほどの祖母の家に行きました。祖母はもう家にはいなくて、近くの小学校に避難していました。小学校で祖母を確認し、「ここから動いちゃダメだよ!」って言って別れました。その後は私の父親である副社長宅へ向かいました。その日、副社長は会社にはおらず、家にいました。母親もそこにいたので、一緒にいた方が良いなと思って、副社長宅に向かいました。家について10分くらい経ったとき、ラジオを聞いていたら女川町で10メートルの津波に4階の庁舎がのまれましたというアナウンスを聞いて。もうここにいても危ないなと思い、やっぱり山へ行こうって家を出たら、ちょうど真っ黒い水がこっちに来るのが見えたので、「ダメだ、来てるぞ」って言って、実家の向かいにある4階建ての社宅屋上に一気に逃げたんです。
―奥さま、そのときはどちらにいらっしゃったんですか?
(奥さま:私は日和山っていう山があるんですけど、その上に私の勤めている会社の人と避難してました。連絡とろうにもメールしかできなくて。)
そうなんです。津波が見える、ほんと5分くらい前にメールだけ繋がって“門脇中学校にいます”ってメールがきて、あぁ良かったぁって。そこにいれば大丈夫だなぁって思って。
―いやぁなんかもう…
いやぁもう… って感じですよね。そのあとは信じられない光景が広がってましたね。
―缶を拾おうと思い始めたきっかけは何だったのですか?
妻とは一緒にいた方がいいと思い、3月13日になんとか山をまわって門脇中学校に歩いて妻を迎えに行ったんです。最初に避難していた社宅に戻ってきたものの、翌日になっても食事を得る見通しが見えなかったのです。でも缶詰は残っているんじゃないかと思い、一緒に避難していた社員10名ほどで会社に向かいました。そしたらやっぱりあったのです。そこで缶詰食べたら本当に美味しかったです。3日間、ほとんど何も食べていなかったことも重なり、感動しました。
―感動するほど、美味しかった。
自分たちはこれで生きていたことを、あらためて実感したんです。缶詰はすごいなあ、って本当に思いました。でも、そこではこの缶詰をもう一度活かそうとは思わなかったんです。3月の下旬くらいにちょっと落ち着いてきて、大量に倉庫の中に埋まっていることは予想がついたので、ほかの社員からも、この缶詰をどうにかしたいね、という声がたくさん上がってきて、4月5日くらいからみんなで拾い始めました。
―拾い始めて、どうでした?
はじめは拾っておいて、何かに使えれば良いなとか、みんな集まれる場所があるだけでいいなとか、そんな思いでしたね。
―まずはみんなで打ち込めるようなものがあればいい、という感じ?
そうですね。震災でみんな気持ちも落ちていましたし、社員がもう一度顔を合わせられて、集まれるだけでも嬉しいな、と思ってやっていました。
―ところでその缶詰はどうしたのですか。
東京の世田谷区の経堂に「さばの湯」さんと居酒屋さんがあり、オーナーの方を中心にそのお店に集まる人たちは、震災前からうちの缶詰を好意にしてくれていたんです。そのさばの湯さんに集まる人たちから、「泥がついていてもいいから、その缶詰を送ってくれ」と言って頂いて。それがきっかけになって、どんどん広がっていったんです。
―4月29日の楽天の開幕戦で配っていたときも、すごいたくさん人が来てましたね。
いやぁ、良かったですね。ほんとに加速したような気がします。それから休みもないくらい、お声を頂いたんです。
―仕事が増えて休みがなくなるって、大変だと思うんです。
いやぁ、ありがたいです。
―これからの展望などはありますか?
そうですねぇ、たくさんの若いボランティアさんたちと関わる機会が持てました。今までは若い人と関わる機会がそうなかったんです。でも僕たちの取組みに若い人がどんどん興味を持ってくれてるっていうのがすごいありがたくて。今後もこういう関わりはどんどん持ちたいなぁって思っています。
―関わりを持ちたい。
やっぱり、地方で育った人は東京に進学するけど、就職は地元に戻ってくるみたいな動きがとれると活気づく。
―そうですよね。
石巻には、石巻でしかできないことがあるし、うちの会社の仕事も石巻に会社があるからこそ、できていることがたくさんあると思うんです。やっぱりこんな恵まれた環境というのは、どんどん活かしていきたいし、延ばしていきたいです。絶対に途切れさせていいものではないので、若い人たちに興味を持っていただいて、活気づいていけるような取組みをしたいです。
―最後に、読んでいる方に、これだけは伝えたいことがあれば教えてください。
そうですね。まぁほんとに今すごい注目されていて、応援してくれる人たちもいると思うんですけど、いきなり大きな支援はいらないんです。少しずつでいいから10年20年というスパンで被災地のことを思い続けていて欲しいな、というのはあります。まずは考えてくれているだけでもうれしいです。
―うれしいですよね。
そうですね。あと、言いすぎかもしれないですけど、今やっている作業も海の近くでやっていますので、地震がまた来た場合、本当にあぶない場所だと思います。この間、社員のひとりと話していて感じたのですが、僕なんかは津波で借りていたアパートに水が入って、ものが失ったくらいです。ぼくたちは若いからまだまだこれからだし、自分たちがやらなければいけないと思っているんです。がんばっていきます!
―ありがとうございました。新しい缶詰も楽しみです。
追伸 これは2011年7月のインタビューです。今は缶詰の回収も終わり、「鯨大和煮」や「石巻鯨カレー」を販売開始されたそうです。缶詰はこちらから購入いただけます。