私にとっての右腕体験
地域の人たちの健康と関係をゆるやかに育む「おらほの家」
2011年9月から右腕として石巻・牡鹿でリハビリ担当として活動しているキャンナス東北の野津裕二郎さん。地元の人から借りている一軒家を改装して12月にスタートさせた「おらほの家」(おらほは、このあたりの言葉で“俺んち”という意味)で、お話しを聞かせていただきました。【地域看護・地域福祉 後方支援プロジェクト・野津裕二郎】
―右腕としてのキャンナス東北への参画は2011年9月からですが、その前の5月にボランティアで石巻にいらしたと聞いています。
はい。昨年2011年5月に石巻の現地リーダーだった菅原健介さんとは、学生時代からの知り合いでした。今回の震災を受けて、自分も何かしたい、という気持ちがあって。健介さんが石巻や気仙沼で動いていることは聞いていたので、アポをとって、声をかけたのが最初です。そうしたら、「来ちゃいなよ」って言われたんで、来ちゃいました。笑
―その時は、どんな活動を?
まずは避難所に行きました。初日は、湊中学校でのトイレ掃除。あとは、ほこりとかヘドロとかすごかったのに、地域住民さんはマスクをしてなくて、肺炎になりやすい環境だった。なので、マスクを配布したり、体調崩したりしている人を保健師さんたちにつなげたり、という仕事をしました。それから、石巻中央公民館で寝泊りしながら常駐し、リハビリ的な視点で、「できることを、できる範囲で」ということで、一週間くらい活動してました。
―その一週間の中で、印象的なことはありますか。
二つあって。一つは、僕はもともとリハビリの仕事をしていたので、リハビリ的な仕事をやることが、自分が貢献できる一番のことだろうと思って、石巻に行ったんですけど。で、できることもあったし、求められることもあった。でも、自分がやりたいこと、できること、しなきゃいけないことと、住民さんたちの求めることのギャップがあったなと感じまして。大学生くらいの若くて動ける人にマッサージを求められたり。確かにその気持ちもわかるんですけど、僕としてはそれよりもリハビリ的なことを考えると、「マッサージして」と言えない高齢者の方たちや、認知症気味な方、病院でリハビリの最中で震災に遭われてそれ以来一度もリハビリできていない方を優先してやっていきたかった。でもなかなかそういう人たちに出会えなかった。
あともう1つは、僕が帰った後に避難所で転倒して骨折した方がいらっしゃいました。僕がいた頃から心配していた方で、骨折の話を聞いた時も、「やはり・・」という感じだった。ボランティアという立場では、医療行為はできない。実際に僕がやったことは下駄箱の設置や、転倒しやすくなっているコードをまとめたりしただけで、1週間で住民の同意や信頼を得ながらできることは限られていた。そのことがあって、長期で入ろうと決めました。
―そういうことがあって、長期的に関われる右腕として参画を決めたわけですね。現地のリーダーである健介さんから「来ちゃいなよ」と言われて、迷いなくすぐに動かれたんですか。
すぐに、ではなかったですね。前の職場で、5月からのプロジェクトとして、もともと僕がやりたかったことも実現できそうだったので悩んでいた。その時に職場のトップの先輩が、「行っちゃいなよ」と。「俺も行きたいけど、行けない。代わりに行ってくれ。今行かないと、お前じゃない。」って。そう言ってもらって、踏ん切りがつきました。
―もともと、今のお仕事に就こうと思ったのはどうしてですか。
小学校や中学校のころから、青年海外協力隊とかに興味があって。人様に迷惑をかけているという思いがずっとあり、いつか人の役に立ちたいという気持ちが強かったんですよね。今の職は、知人がリハビリを受けているのを見た両親が「向いている仕事を見つけてきたよ」っていうのがきっかけで、高校の時に「なろう!」と決めて専門学校に行きました。
―専門学校を卒業して、病院に。
はい。21くらいからなので、まだ3年目です。病院では、回復期病棟で機能回復から日常生活の動作の訓練をしていました。今のキャンナスでの活動は在宅の方を対象としているので、機能訓練を集中的にやるというよりも、動けないという制限の中でどうやるかを考えて、福祉用具を用いたりします。そういった点では病院にいた頃とはジャンルの異なるリハビリをやっていますね。
―最近のお仕事のことを聞かせてください。
最近は、基本はリハビリスタッフとしての役割で、牡鹿半島内のリハビリが必要な住民さんへのサポートですね。あとは、北海学園大学の学生のボランティアコーディネートをやったり。たとえば今週一週間は、牡鹿半島内で、仮設住宅と在宅への戸別訪問をしています。看護師の方と一緒に訪問して、個別のニーズ調査です。そのニーズに基づいたサポートの仕方を考えていきます。
―今、牡鹿半島内で気になる住民さんの件数は、何件くらいですか。
定期的に気にかけていかなければいけないな、というのが70件くらい。年齢層は、70~80代くらいで、まれに90代もいらっしゃいます。日常生活の状況が、以前に比べて困難になっている方は、70~80代くらいの方が多い。もともと息子さん家族と同居していたのが、今回の地震を期に一人暮らしになった、おじいちゃん・おばあちゃんの二人だけで暮らすようになった、というケースも多いです。
―どんなことを大事に活動していますか。
どんなことを大切に、か。うーん。『パッション』ですね。根本は、被害に遭われている方に何かできればな、と思ってここに来たので、それを忘れないように。あとは地元のやり方を大事にすること。結局、自分たちは外部の人間。外のやり方で混乱させないようにしないと。
―地元のやり方って例えばどういうことかな、もう少し聞かせてください。
そうだなぁ。面倒くさいんだけど、なんか味があるなぁと感じています。都会みたいな数字とか書面でのやり方だけはなかなか許されなくて、地域・地区のコミュニティの連携を考えないで動いてしまうと、壁が厚くて蚊帳の外にされてしまいます。地域に行けばいくほど、そういうのがあると思うんですけど、自分は神奈川で育ったのでこれまでそういう経験してこなかった。たとえば、お茶っこ(仮設住宅の集会場などを利用して定期的に開催している住民とのお茶会)をやるにしても、地域のドンみたいな人を通さないと次はできないって感じになるので、まずはその人との関係性を構築することが必要で。でも、味があるんですよね、なんか。そういったことを、毎日の仕事の中で実感しています。
―そんな地域の中で「おらほの家」や、野津さん自身はどういった存在になりたいと思っていますか。
地域の繋がりがある反面、人の目を気にする部分があるんですよね。「おらほの家」は、牡鹿半島の真ん中にあるし僕ら外部の人間がやっているので、そういった目を気にしなくてもいい場になれるといいなと思っています。これは団体というより僕のビジョンですけど、地域の人が集まるオープンスペースにしていきたい。リハビリの面では、健康体操を地元のサークルのようにこの場所を使ってやっていけたらいいのかなと思っている。あとはナースが常駐して、病院に行くまででもないけど、ちょっとした健康相談のできる場所になれたらなと思う。気持ちを楽にして帰ってもらえるような場に。ここ(おらほの家)から救急車呼ぶと、到着までにどのくらいかかるかわかりますか?
―石巻市内からだから、1時間くらい?
そうなんです。全国の平均では5、6分とかで到着できるはずが、ここでは1時間かかる。そういう環境の中で、地域の方が安心して暮らせるような環境づくりを少しでもしたい。
―半年間、活動して嬉しかったことはありますか。
この間、血圧を測りに来てくれたおばあちゃんが、僕のビジョンを体現してくれていて。お茶っこをしながら、健康体操の運動を続けているみたいで、ある時仮設住宅でたまたま会った時に「継続的に運動してるんだよー」と言ってくれて。ある意味で僕を喜ばせようとしてくれているんですよね。そういう風に健康を意識しながら、僕のことを思ってくれる人がいるっていうのが、嬉しかったですね。
―今後はどうしていきますか。
今の活動が事業として地域の一部となるところまでは関わっていきたいと思っています。1~2年はかかると思うので、2年くらいは覚悟している。住民票をここ(おらほの家)に移そうとも思っています。
―将来についての考え方など、前の職場で働いていた頃と比べて、変わったことはありますか。
根本の部分は変わっていないと思うけど、視野はかなり広がっている。自分の成長も感じるし、未来像に近づいてるな、というのも感じています。地球上で一番必要とされることをやりたいなと思っていて、リハビリを受けられないところもあるので、将来的にはそういったところに行きたい。今ここで力をつけるのはそのための準備期間だと思っていて、ここでの経験は次に活かすことができると考えています。
―ありがとうございました。
聞き手:辰巳真理子(ETIC.スタッフ)/ 文:田村真菜(みちのく仕事編集部)
■右腕募集要項:地域看護・地域福祉 後方支援プロジェクト
■キャンナス東北ブログ(活動の様子が掲載されています)